高校二年の二学期。
年の瀬も近づいたある寒い朝のこと。
「はあ……間に合うかなー」
私は白い息を吐きながら独りごちた。
いつも駅までは自転車なのだけど、今朝いつものように乗ろうとしたら、
タイヤの空気が完全に抜けていた。
パンクしたのだ。
ここ最近、タイヤの振動が激しく空気圧が安定してなかったので、
修理した方がいいなと思っていた矢先だった。
明日土曜日だし、もう一日我慢してくれたら良かったのに……ツいてないな。
そんなわけで今日は駅まで歩くことになった。
目の前の緩やかな長い登り坂が伸びている。
片側一車線で、左右には歩道と住宅が並んでいる。
自転車のときは迂回して他の道を使うので、この道は通らない。
ここまで辿り着くまでに長い階段があるからだ。
でも、自宅から駅まではここが最短距離になるので、
徒歩の時はこの緩やかだけど長い登り坂を通ることになる。
私の前を、中学の制服を着た女の子と、ランドセルを背負った男の子が歩いている。
きょうだいだろうか、何か話しながら笑い声を上げている。
微笑ましく思いながら、足を速めていると。
車道の方からなにか小さな黒いものがボールのように弾んで飛んできた。
それは男の子の足首のあたりにぶつかり、男の子が転ぶ。
驚いて助け起こそうとした女の子の足元にまとわりつくように、
黒いものが跳ね回ると、彼女もよろめいて膝をついた。
(え、なに?)
黒いボールのようなものは、車道を跳ねるように横切って、反対側の歩道へと戻っていく。
高く弾んで、並んでいる住宅の塀を飛び越えて見えなくなった。
私は二人に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「は、はい、私は大丈夫です……ちょっと弟が」
女の子には怪我はないようだが膝をついたのでスカートが汚れていた。
男の子は膝を擦りむいていて泣きそうになっている。
「ああ、ちょっと待ってね」
携帯用の消毒液をつけて絆創膏を貼ってあげる。
剣道部に所属しているので、怪我はしょっちゅうするからいつも持ち歩いている。
「ありがとうございます」
「ありがとー、おねーちゃん」
黒いものが消えていった住宅を見やる。
二階の窓。
カーテンが閉まっているが、隙間から人影がこちらを窺っているのが見えた、ような気がする。
しばらく三人で連れ立って歩く。
「なんで転んだの?」
「わかんない、なんかがぶつかってきたんだよ」
「私も、なにかに足を取られて……つまづくようなものは何も見当たらなかったんですけど」
やはりあの黒いものは、姉弟には視えていなかったようだ。
坂を登り切ったところで、ふたりと別れた。
その日の帰り。
ちょっと迷ったけれど、例の道を通ることにした。
私は人には視えないものが視える霊感体質だ。
このテのものに関わらないほうがいいことは、
幼いころから学習してきて重々承知している。
だけど、今朝のアレはこのまま放っては置けないと思った。
確証はないけれどあの黒いものに意思があるようにはみえなかった。
何かに操られて……本体は別のところにいる?
そう、この世のものではない『霊」とかではなく、
生きた人間が関わっていると思う。
生者の負の感情、あるいは悪意。
今回はちょっとの怪我で済んだけれど、そのうち大きな事故を引き起こすかもしれない。
ああいうものはエスカレートしていくものだから。
今朝、姉弟が襲われた場所に差し掛かる。
もうあたりは暗くなっていた。
何か仕掛けてくるか、こないか?
ヘッドライトをつけた車がときどき走っていく。
ぞくっと悪寒が走る。
視界の隅に今朝見た黒いものが、車道を横切って私に向かってくるのが視えた。
足もとに転がり込んでくる。
私は小さく跳び下がるようにしてそれを避け、踏みつけた。
ぐにゃりと小動物を踏んだような嫌な感触だった。
さらに小動物のようにキーキーと耳障りな鳴き声をあげて逃れようとしてもがいた。
靴の底からざわざわと這い上るようにして『嫌な感覚』が脚のほうへ広がってくる。
憎悪。劣等感。怒り。攻撃性。妬み。嫉み。恨み。
ありとあらゆる『ネガティブな感情』がテニスボールくらいの大きさのそれに詰め込まれている。
視線を走らせて飛んできた方向を見た。
二階の窓。
カーテンの隙間から人影がのぞいている。
小刻みに揺れていてもがいているように見える。
(返すよ、受け取れ!)
私は黒いものを蹴り飛ばした。
車道を弾むようにして、それは主のもとへと逃げ帰っていった。
今朝と同じように黒いものが、塀を飛び越えて見えなくなる。
カーテンの隙間から覗いていた人影がぐらっと揺れて見えなくなった。
男の叫び声みたいなものが微かに聞こえたような気がした。
その場を離れて、しばらく歩いていると、救急車がサイレンを鳴らして走り抜けていった。
さっきの出来事と関係があるのかどうかはわからない。
あれを放った主は、毎日の生活でなにか嫌なことでもあったのか。
自分と同じように他人も不幸になればいい。
弱いものを傷つけたい。
鬱憤晴らしをしたい。
そんな悪意を凝縮したもの。
あれは『呪い』のようなものだ。
それが跳ね返ってきたらどうなるか。
人を呪わば穴二つ、自業自得だ。
結構な怪我はするだろうけど、死にはしないだろう、たぶん。
自転車を修理し、普段はその道は通らなくなった。
雨の日に歩いて登下校することはあるけど、黒いものは二度と見なかった。