黄泉比良坂(よもつひらさか)

オリジナルストーリー

高校二年の夏休み。
俺は所属している剣道部の夏季合宿に参加していた。
宿泊所は郊外のひなびた町にある神社の宿坊で道場も併設されている。
宿坊は小高い山の上にあり、周囲は町に囲まれているのだが、
西の方角は雑木林が広がり、川が横たわっている地形だ。
なんだか映画のロケーションのような風景に、俺たち剣道部員のテンションも上がる。

一日の稽古前と稽古後にランニングを行うのだが、
そのコースは西方にある雑木林を目指して走り、
川に突き当たったら戻ってくるというもので、
行きは下り、帰りは上りとなかなか走りごたえがあった。
その初日早々、坂道を走っている最中、ざわざわと嫌な気配に襲われた。
『人ではないモノ』が近づいたときの感覚だ。
視線をあちこちに走らせたが、姿そのものは視えなかった。
結局姿を視ることなく、道場に辿り着いて稽古をする。
稽古後のランニング中も同じく気配を感じたが、姿は視えないままだった。

その日、風呂と夕食後のミーティングを終え、就寝までの自由時間。
「越嶌先輩、ちょっといいですか?」
三年生の越嶌理沙さんに声をかけた。
俺と理沙先輩はこの世ならぬものの存在を視たり聞いたりする『霊感体質』だ。
先輩のそれは俺よりも数段上のレベルにある。
「ランニングコースの坂道なんですけど……」
「ああ、あそこね、私も感じてたよ……あまり良くなさそうなモノだね」
「だけど、俺には姿は視えなかったんですよ、先輩はどうですか?」
「私も視えなかったよ……向こうに姿をあらわす気がなかったんじゃないかな」
「でもタチが悪いんですよね……危険じゃないですか?」
「そうだね……じつは何か謂れがあるんじゃないかと調べたら、
あの坂道のことでちょっと気になる話があったんだよ」
この辺りの町は歴史が古く、村や集落と呼ばれる時代から存在していた。
そして例の坂道にはある云い伝えがあった。
いわゆる『神隠し』で、年に一人の割合で行方不明になるものがあったという。
直近では、いまから五十年ほど前に伐採業をしていた年配男性が、
仕事帰りに姿を消したのが最後だという。
「そ、そうなんですか」
「うん、ネット情報だから真偽はわからないけど、そんな記録があったよ」
古い町の古い云い伝え……都市伝説みたいなものか。
「大丈夫でしょうか? みんなあそこを行き来するのに……」
「行方不明になるのは単独で行動しているときに限られてるし、もう五十年も何も起きていないから、さほど心配はないんじゃないかな……もちろん安心はできないけど」
「そうですね……一人にならなければ大丈夫かな」
「気になるのは、ただの神隠しじゃなくて、いなくなった人は『亡者に連れ去られた』って言われてることなんだよね」
「マジですか……気味悪いですね」
「うん」
理沙先輩は寒そうに肩をすくめた。

それから毎日、あの坂をランニングで行き来した。
俺と理沙先輩はそのたびに不穏な気配は感じるものの、
相変わらず姿は視えないし、なにごとも起きなかった。
そして最終日前夜。
ミーティングを終えた後の自由時間もいつもより長かった。
最後の夜だから楽しめという配慮なのだろう。
男子部員ばかりがひと部屋に集まり、くだらない話に大笑いしていたのだが、
ふと気になって窓の外を見た。
そこからは宿坊の出入り口が見えるのだが、人影が門から出ていくのが目に映った。
(え……先輩?)
長い髪をまとめ、すらりとした長身の後ろ姿は間違いなく理沙先輩だ。
向かう方向はあの坂だ。
もしかしたら、あの怪しい気配の正体を突き止めるつもりなのでは?

俺はトイレに行くと告げて部屋を出た。
宿坊の門まで来たが、すでに先へ行ってしまったのか理沙先輩の姿は見えなかった。
「越嶌先輩! どこですか、俺です、水瀬です!」
声をかけながら小走りであとを追う。
夏の虫がうるさいほど鳴きしきっている。
坂道のところまで来た。
両端に坂の始まりを示すように大きな岩があり、門柱のように見える。
坂道の下り終わりにも同じような岩がある。
俺たちは勝手に上之岩、下之岩と呼んでいた。
上之岩の間を抜け、先輩の名を呼びながら坂道を下った。
しかし先輩の返事はない。
もっと先まで行ってしまったのだろうか?
もう小走りではなく、走っていた。
「先輩! 理沙先輩! どこですか、返事をしてください!」
月は雲に隠れていて、周囲は墨を流したような闇だった。
スマホのフラッシュライトを点けて、その明かりを頼りに坂を下る。
先に行くほど、嫌な気配が濃厚になっていく。
汗ばむような夏の夜なのに全身に鳥肌がたっていた。
(ここはやっぱりやばい。理沙先輩、どうか無事で……!)
俺は転がるように坂道を駆けた。

どれだけ走っただろうか、まもなく下之岩に辿り着いてしまう。
なのに先輩の姿は見えなかった。
まさか本当に何かあったのでは?
最悪な結果ばかりが頭に浮かんでしまう。
ほとんど取り乱しかけたとき、
「水瀬くん、どうしたの?」
と、前方から理沙先輩の声がした。
ライトを振り向けると、眩しそうに手をかざした理沙先輩が立っていた。
「せ、先輩……無事でしたか、よかった……」
俺は膝に手を当てて前屈みになりながら、安堵の声を漏らした。
「どうしたの、そんなに慌てて……変だよ?」
「い、いや……先輩こそ……何やってんですか……こんな時間に」
息切れし、途切れ途切れにしか言葉が出てこない。
「水瀬くん、あたしを心配して来てくれたの?」
「あ、当たり前……じゃ、ないですか……こんなとこに……ひとりで……くるなんて」
口の中が乾いて、喉の粘膜がくっつきそうになって咳き込んだ。
「ちょっと、大丈夫?」
先輩は肩にかけていた巾着袋のようなバッグから水筒を取り出した。
「はい、水飲んで」
「あ、ありがとう……ございます」
水筒を受け取った。

ふと違和感を覚える。
もうほとんど坂道が終わる下之岩まで到達していた。
理沙先輩のあとを追い始めてから俺はずっと走り通しだった。
なのに、どうして途中で追いつけなかったんだろう?

口元に水筒の飲み口を持っていきかけた手が止まっていた。
「どうしたの、早く飲んで」
微笑みをたたえた先輩が促してくる。

理沙先輩も走っていたのだろうか。
俺の呼吸は乱れに乱れている。
なのに先輩は息切れどころか汗ひとつかいていない。
相変わらず周囲には不穏な気配が漂っている。
いや、走っていたときよりもそれは濃厚なものになっていた。

手から水筒が滑り落ちた。
音を立てて地面に転がる。
「どうしたの?」
理沙先輩が慌てて水筒を拾い上げた。
「違う、おまえは理沙先輩じゃない!」

「何、言ってるの?」
先輩が怪訝そうな顔になる。
俺はまた咳き込んだ。
吸い込む空気が埃っぽい。
「いいから水飲んで、落ち着いてよ」
水筒を俺の口元に差し出してくる。
それを振り払った。
遠くへ飛んで転がった。

「なにするのよ!」
理沙先輩の、いや、先輩の姿をしているものの表情が険しくなる。
エアコンの効いた部屋から出たときの暑い外気に包まれたように、
ぶわっと嫌な気配が全身を覆ってくる。
邪悪な気配はこの坂道じゃない、目の前のこいつから漂ってくるんだ。

俺は踵を返して、もときた道を走った。
宿坊を出たときはあれだけ鳴いていた虫の声が全く聞こえない。
なぜもっと早く気づかなかったのか。
「待ちなさい!」
声と足音が追ってくる。
夢中で坂道を駆け上がった。

ずっと駆け降りて来て、すぐに駆け上がるのはさすがにきつい。
喉がひゅうひゅうと鳴った。
膝はガクガクでいまにも崩れ落ちそうだ。
「待つのよ! 早く水を飲みなさい!」
声と足音はすぐ後ろまで迫っていた。
腕が伸びてきて、俺の襟首を掴もうとする。
首をすくめてそれを躱し、ちらりと後ろを見た。
先輩の顔をしたそいつは恐ろしい形相をしていた。
(理沙先輩はそんな顔しねえよ……クソが!)
怒りの感情が限界を超えた足を前へと動かす。
すこし相手を引き離した。
剣道部に入って二度目の夏。
毎日のように走り込んだ成果はあったようだ。

まだか、坂道の終わり――上之岩ははまだなのか。
「あきらめなさい! こっちへいらっしゃい!」
ふたたび声と足音が迫ってきた。
足がもつれ、目の前がかすむ。
喉は痛み、肺が破れそうだ。
くそ、ここまでなのか……。

目の前の闇を割って、いきなり人影が現れた。
見慣れたその人影は俺の後ろにいる奴に何かを投げつけた。
「何をする! ぐあああああ!」
背後から悲鳴が上がった。
「水瀬くん! 走って!」
理沙先輩だった。
走ってきたらしく息を弾ませている。
先輩、と言おうとした。
だが声が出ない。
もう限界なのか、先輩の顔を見た安心感からなのか、膝が折れそうになる。
「駄目よ! 走って、早く!」
手首を掴まれ、ぐいっと引っ張られた。
華奢だが力強く握ってくる指を握り返して、再び走る。

ポニーテールが左右に揺らしながら走る理沙先輩の後ろ姿だけを見て走った。
「待ちなさい! 待てぇ!」
声と足音がだんだんと近づいてくる。
思わず振り返りそうになる。
「振り向かないで! 見ちゃ駄目!」
俺の腕をひきながら理沙先輩が叫ぶ。

見えてきた。
坂道を上り切ったところにある上之岩。
「ぐおおおおおおおおおお!」
獣の咆哮のような声がすぐ後ろに迫っていた。
腕が俺を捕えようとして伸びてくるのがわかった。
前につんのめりそうになる。
もう駄目だ、先輩だけでも逃げてください……。
握っていた手の力を緩めた。
「あきらめちゃダメ、水瀬くん、走って!」
細い指が俺の手を握りしめる。
たたらを踏むように体勢を立て直して上之岩を目指した。

手を握り合ったまま、俺と理沙先輩は体を投げ出すようにして、上之岩の間を駆け抜けた。
その瞬間、
「ぐうああああああああああああああああああああ!」
怒りとも絶望ともつかない声が背後から響いた。
振り返ると、門のように立つ岩の向こう側で、
先輩の姿をしていたものが断末魔のような声を発している。
それは老婆の姿をしていた。
「き、貴様らああ……あとすこしだったのに……あとすこしだったのにいィィィィィ!」
無念そうな叫び声のあと、ふっとその姿がかき消えた。
俺と理沙先輩は息を乱し、足を投げ出して座り込みながら呆然とそれを眺めていた。
「せ、先輩、ありがとうございました……」
少し息が整ってきたところで、俺は理沙先輩に頭を下げた。
「いやあ……今回は危なかったね」
先輩もさすがに青ざめていたが、
「はあ……坂道ってロクなことないなあ」
と小さく呟いた。
「え、なんですか?」
訊き返したが、
「ううん、なんでもないよ」
と、はぐらかすように笑った。

その夜は心身ともにクタクタに疲れていて、シャワーを浴び直して部屋に戻ってすぐ眠った。
理沙先輩とゆっくり話ができたのは合宿が終わって数日経った夏休みの練習日だった。
稽古後、登校している生徒がほとんどいない静かな中庭のベンチに座って、
あの夜、起きたことについて理沙先輩の口から語られた。
先輩は合宿中、時間を見つけては坂道の怪異について調べていたらしい。
するとネットのオカルト掲示板で興味深い書き込みを見つけた。
それは投稿者の祖父の話で、若い頃に例の坂道で危うく連れ去られるところを生還したというものだった。
仕事帰りに坂道を一人で歩いていると、大きな荷物を持った老婆に出会った。
大変でしょうからお持ちしましょう、と荷物を持ってあげると、お礼だと言っておにぎりをくれた。
だが、見知らぬ他人の握ったおにぎりを食べる気にはなれない。
一応受け取って、あとで食べます、というと、すぐに食べろと言う。
のらりくらりと躱していると、いきなり口に押し付けられた。
驚いて逃げ出すと、恐ろしい形相で老人とは思えない脚力で追ってきた。
が、坂を上り切って双つの岩を過ぎると、それ以上追って来ずに姿を消した、という。
なんだか、俺があの夜体験したこととよく似ている。
「その書き込みを見つけたとき、思い出したことがあったんだよ」
理沙先輩は夕陽を眺めながらそう言った。

日本神話『古事記』に記されているエピソードのひとつ。
男神イザナギと女神イザナミは仲睦まじい夫婦だった。
イザナギは先立ってしまった最愛の妻イザナミを追って、亡者の棲む黄泉の国に足を踏み入れた。
二人は再会を喜びあい、現世へ帰ろうとイザナギは言ったが、
黄泉の国の火で煮炊きした食べ物『よもつへぐい』をすでに食してしまったイザナミはそれはかなわないと泣く。
それでもあきらめずイザナギが頼み込むと「それでは黄泉の国の神にお願いしますので、その間は決してわたしの姿を見ないで後ろを向いていてください」と言う。
だが、イザナギは待ちきれずに振り返ってしまった。
そこには体が腐り果ててウジ虫がわき、ふた目と見られない妻の姿があった。
肝を潰して逃げるイザナギを「よくも恥をかかせましたね」と怒り狂ったイザナミが黄泉の兵士を率いて追いかけてきた。
イザナミは退魔の効力がある桃の実を投げつけて、黄泉の兵士を追い払ったが、
イザナミだけは最後まで追いかけてきた。
イザナギは現世と黄泉の境目を大きな岩で塞いで結界を作り、妻を退けて難を逃れた。
そうして地続きだった生者と亡者の国が分断されたのだ。
かつてふたつの国を繋いでいた坂道を、黄泉比良坂(よもつひらさか)といった。

「たぶんアレは生者を黄泉の国に引き摺り込む『魔』だったんだと思う。
ただ、向こうの存在が現世の人間に物理的に直接干渉するのは、
かなり難しいことで、満たすべき条件があったんだろうね。
それが『相手が単独で行動していること』
『黄泉の国の食べ物――よもつへぐい、を食させること』
『現世に干渉できるのは上之岩と下之岩の間だけ』だったんじゃないかな」
そうか……だからあいつは俺に自分が持っていた水を飲ませようと躍起になっていたのか。
そして坂の始まりと終わりにある岩は、黄泉の力が現世に及ぶのを防ぐ結界石だったんだ。

「でも、なんで俺が目をつけられたんでしょうね……」
「もしかしたら霊感持ちだったことを逆に利用されたのかも。
普通、向こうの存在は生きてる人に認識されないでしょ?
認識させるだけでかなりのエネルギーを使うんだとしたら、
ナチュラルに視える水瀬くんや私みたいな体質は都合がよかったんじゃないかな。
そのエネルギーを『別の姿を借りる』ほうに使えるからね」
そうか、老婆があいつの本来の姿だったんだな。

「先輩、あいつに何かぶつけてましたよね……なんだったんすか、あれ」
「ああ、あれね、手を出してごらん」
理沙先輩はちょっと笑うと、カバンの中から何かを取り出して、
俺の手のひらの上に載せた。
それはピンク色の包装紙に包まれたキャンディーだった。
ピーチ味と書いてある、つまり桃だ。
「え、これが退魔の桃の代わり? あいつが怯んだのはそういうことですか」
「違うよ。私、このキャンディーが好きで、いつも持ち歩いてるの。
たまたまポケットに入ってたのを投げつけただけ……でも笑っちゃうぐらいの偶然だよね」
先輩はクスクス笑うと、包装紙を破って口に含んだ。
「よもつへぐいじゃないから大丈夫だよ」
俺も笑いながら、もらったキャンディーを口に入れた。よくある甘味料の桃味がした。
「普通は触れられないはずの現世の人間に、あいつは干渉できたでしょ。
と、いうことは、こっちからも干渉できるってことだよ。
だから桃味は関係なくて、単純にいきなりなにかを投げつけられて驚いたんだよ」
確かに。
あの水筒の質感や、俺の襟首を捕まえようとして一瞬触れた手の感触は本物だった。

「でもほんとにあそこが古事記に出てくる黄泉比良坂だったんでしょうか?」
「どうだろうね……黄泉の国伝説はあちこちにあるし、
あそこもそのうちのひとつってだけじゃないかな、霊道みたいなものっていうか」
「あんな場所がいくつもあるって考えたら怖いっすね……」
あの夜、俺が先輩の姿をしたあいつに誘き寄せられ、
理沙先輩に救けられて上之岩を越えるまで、
体感としては三十分、いやそれ以上あったのに、
実際は五分程度の時間しか経っていなかった。
現世と幽界では時間の流れが違うと言われているのはそういうことなのか。
俺はちょっと首をすくめた。

「だけど先輩が俺を救けにきてくれたときは本当に嬉しかったです。
でも、なんでわかったんですか?」
「スイッチを切ってても、あいつの気配が伝わってきたんだよ。
現世に干渉して、さらに別の姿に化けるなんて、かなりのエネルギーを使ったってことじゃないかな。
そのエネルギーがあまりにも大きすぎて、スイッチが効かなくなった……そうとしか言いようがないね」
スイッチを切る、というのは霊感センサーをオフにするってことだ。
理沙先輩はそういうことができる。
俺も体得したいが、なかなかできることじゃない。

「今後、大丈夫でしょうか。また誰かが犠牲になるんじゃ……」
「うーん、どうだろうね。でも、もう五十年以上行方不明者が出てないって話だし。
多分、連れ去らなかったんじゃなくて連れ去ることができなかったんだよ。
昔はともかく、このご時世に見知らぬ他人からもらった食べ物を、平気で口に入れる人なんていないじゃない?
黄泉の国に引き摺り込むためのいちばん大事な条件が満たせないってことだよ。
それに翌朝のランニングのとき、嫌な気配はしなかったでしょ。
全部私の想像でしかないけど、五十年以上も人の生命を奪うことができずにいたうえに、
あれだけのエネルギーを使ってしまったから、あいつはもう悪さはできないんじゃない?」
「そうですね、きっとそうだと思います」
最終日は朝のランニングだけをして、合宿は終了した。
そのとき、坂道でいつも感じていた邪悪な気配はまったく感じられなかったのだ。

「だけど黄泉比良坂かあ……あの場合、水瀬くんがイザナギで私がイザナミってことになるのかな」
「はは、そうですね……」
イザナギとイザナミか、そのふたりって夫婦なんだよな。て、ことは……。
夕暮れどきでよかった……顔が赤くなってるのがバレないから。

「でも、あの夜はあんなわかりやすい気配になんで気づかなかったの?」
「……面目ないです」
気づくチャンスは何度もあった。
でも『理沙先輩が危ない』ということに意識が集中して見過ごしてしまった、
つまり隙を突かれたってことだ。
まさか、あいつは俺が理沙先輩のことを案じて取り乱すことが、
わかっていて先輩に化けたのだろうか……。

「水瀬くん、もうちょっと修行しなきゃだね、あんなのに騙されてるようじゃまだまだだよ。
正体を見破って水を飲まなかったのはさすがだけど」
「は、はい、精進します……そろそろ暗くなってきましたし、帰りましょうか?」
俺は立ち上がって促した。
じっと座っていると心臓の音が理沙先輩に聞こえてしまいそうな気がする。
「そうだね、行こうか」
理沙先輩も腰を上げて、うーん、と背伸びをした。

俺があいつの正体を見破ったきっかけは……。
あのとき、坂道で出会ったニセモノの言葉だ。

『水瀬くん、あたしを心配して来てくれたの?』

理沙先輩は、自分のことを『あたし』とは言わない。
『私(わたし)』と言うからだ。
常日頃、理沙先輩の言葉にことさら耳を傾けているから気づけたのだ。

「ちょっと喉乾いちゃったなあ……なんか飲み物買ってかない?」
「じゃあ、俺に奢らせてください」
「え、いいよ、悪いよ」
「いえ、ぜひ。救けてもらったお礼もロクにしてないし」
「そうかー、じゃ遠慮なくご馳走になろうかな。
私、冷たい麦茶がいいかなあ」
その無邪気な笑顔が眩しい。
最悪の夜から救ってくれた、勇敢な幸運の女神に心から感謝した。

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