高校一年の夏。
所属している剣道部の初めての合宿でのこと。
スポーツセンターの道場を借りての四泊五日のスケジュールだ。
宿泊するのはスポーツセンターから徒歩五分ほどの民宿だった。
合宿とはいえ、やはり泊まりがけでどこかへ出かけるという、非日常体験は楽しいものである。
もちろん練習は真剣にやったが、全体的にみんなの表情も明るく、テンションも高かった。
食事と風呂を済ませ、就寝時間までの自由時間。
部員たちと談笑している途中、
俺はトイレに立った。
部屋に戻る途中、ジュースでも買って行こうと自動販売機コーナーに立ち寄ると先客がいた。
「越嶌先輩、お疲れ様です」
「ああ、水瀬くん、お疲れ」
取り出し口からミネラルウォーターのボトルを手に取りながら、振り返って先輩はにこりと笑った。
二年生の越嶌理沙先輩。
端麗な顔立ちにすらりとした長身で、男女関わらず憧れている者は多い(もちろん俺もだけど)。
そして先輩には誰も知らない秘密がある。
それは『霊感体質』、しかもかなり強力で、視えすぎて困るほどだという。
だから普段は感覚を遮断して視えないようにしているらしい。
それを先輩は『スイッチを切る』と表現している。
じつは俺も『視える体質』なのだが、先輩には遠く及ばない。
だけど感覚を共有できる仲間意識のおかげで、こうやって親しくできるのはちょっと嬉しい。
「なんか感じた?」
「いえ、いまのところはなにも……先輩のほうは?」
「うーん、私もとくになにも感じないなあ」
「ただの噂だったんですかね?」
「だといいけどねー」
じつは今回の民宿に『出る』という噂があったのだ。
今から六年前、剣道部の夏合宿でここに宿泊したとき、幽霊騒ぎがあったという。
女子部員の部屋や風呂を覗いていたらしい……。
それって霊じゃなくノゾキじゃないのか? というところだが、
押入れの中から男が覗いており、悲鳴を聞いた顧問の先生が駆けつけて、
徹底的に調べたのだが、姿はなく、そもそも侵入も逃走も不可能だった。
さらに男の顔は半透明だったという証言もあり、それは『幽霊』だったと結論づけられたのだ。
その騒ぎの後、合宿でここを使うことはなかったのだが、今回は他の宿が満室だったので、
やむなくこの民宿を使うことになったのだ。
もう六年も経って当時を知る生徒もとっくに卒業しているし、大丈夫だろうという判断もあったのだろう。
ちなみにその話は当時この高校に通っていた、理沙先輩の従姉妹から聞いたのだという。
その後しばらく雑談をし、そろそろ部屋に戻ろうかというとき。
理沙先輩が急にハッとした表情で後ろを振り返った。
それがあまりにも差し迫った様子だったので、
「どうしたんですか?」
と、俺が尋ねた直後。
「キャー!」
という女の子の悲鳴が聞こえてきた。
それは自販機コーナーから一番近い部屋からだった。
先輩が弾かれたように駈け出し、俺も慌ててその後を追った。
「どうしたの!」
理沙先輩と俺が部屋のドアを開けて飛び込む。
そこは一年生女子の部屋だった。
五人ほどいる部員が座り込んだり、突っ伏したりしている。
「ま、窓の外に人が!」
震えながら指をさす方向を見ると、カーテンが半分ほど閉じられた窓がある。
外はすでに真っ暗になっており、鏡のように部屋の中が反射している。
「あ……!」
部屋に飛び込んだ俺と理沙先輩の姿が映っていたが、
ちょうどその間にぼんやりとした男の顔が浮き上がるように映っていた。
(ノゾキか……?)
ちょっとビビっていたのだが、男は俺ひとりだったので、
「何やってんだオイ!」
と怒鳴りながら、窓に飛びつくようにして開けたのだが、
そこには暗い中庭があるだけで、男の姿はない。
(隠れるヒマなんかなかったはずだけど?)
そう思いながら振り返ると、理沙先輩と目が合った。
先輩はなんともいえない表情で、小さく首を振った。
それを見た瞬間、俺の背筋がぞくりと毛羽だつ。
そのうち、部屋の外が騒がしくなる。
騒ぎを聞きつけた部員たちがやってきたのかと思っていたが、
一向に部屋に入ってこない。
開け放ったままのドアから顔を出すと、顧問の先生や先輩たちが、
切迫した表情で廊下の奥へと駈けていく。
洗い髪の女子部員が泣き叫んでいるのを先輩たちが宥めている。
(いったいなにが……?)
俺は呆然としてその光景を見ているばかりだった。
その騒ぎの原因は女子風呂を覗いているのに、部員が気づいたということだった。
逃げようとしていた覗き魔は先生と先輩たちに取り押さえられた。
呆れたことに、それはこの民宿を営む夫婦の息子だったというのだ。
通報を受けた警察が駈けつけて、事情聴取その他で合宿どころではなくなり、
急遽中止になって俺たち剣道部は翌日帰宅の途についた。
犯人の息子の自供によると、何年も前から宿泊客の女性の風呂や部屋を覗いていたということだ。
六年前の剣道部の幽霊騒ぎもあの男だったらしいと聞いた。
そのショックは大きく、女子から数名の退部者が出て、後味の悪い夏となった。
その夏休み明け。
初めての剣道部の練習日に理沙先輩と顔を合わせたとき、
「なんか大変なことになっちゃいましたね、大丈夫でしたか?」
俺がいうと、
「うん……まさか本物のヘンタイまでいるとは思わなかったけど」
と、先輩がため息をついた。
「え……ヘンタイ『まで』って……?」
俺が首を傾げると、
「視たじゃない、キミと私が部屋に飛び込んだとき。窓に映ってたでしょ」
あのとき。
窓に映った先輩と俺。
その間に男の顔がはっきりと浮かび上がっていた。
そうだ。
外は真っ暗で部屋の中が明るい。
窓の外にあるものが、明るい部屋からあんなにはっきりと見えるはずがない。
あれは俺と先輩の間……部屋の中にいたんだ。
「まさか……気づいてなかったの? あのとき振り返って、私の顔を見るもんだから気づいてたのかと……」
理沙先輩がちょっと目を見開く。
「い、いやあ……確かにゾクっとして感じるものはあったんですけど……女の子たちがあまりにも騒いでるんで、こっちも気が動転しちゃって」
頭を掻きつつ言い訳をする俺を見て、
「まだまだ修行が足りんよー、水瀬くん」
理沙先輩はおかしそうに笑った。
どっちにしても、あの変態野郎、理沙先輩のことも覗いていたらただじゃおかねえ、と思った。