部屋のドアがガチャリと開く。
僕は息を潜めて、入ってきた部屋の主を眺めた。
白いブラウスがとてもよく似合っている。
彼女はひと息ついてからドレッサーに座った。
なにかいいことでもあったのだろうか、鏡に映った愛らしい唇には笑みが刻まれている。
化粧を落として部屋着に着替える。
無防備に晒される白い肌にドキドキしながら見入った。
艶やかな長い黒髪を手ですくうようにしてさらりと後ろへはらった。
真っ白な綺麗なうなじがひらめく。
神々しいまでの美しさにため息をついた。
僕は空気の真似をして気配を消し、大好きな彼女のひとつひとつの動作を見つめているのだ。
――天井裏から。
僕は冴えない男だった。
小学生のころから――なんなら物心ついたときからそうだった覚えがある。
なにをしてもどんくさい。
幼稚園で歌を歌うときも、周りのみんなはとっくに歌詞を覚えているのに、
僕はいつまで経っても覚えられない。
走るのは遅いのは当たり前。
お遊戯の時間もダンスの振りも覚えられずに、僕一人だけワンテンポもツーテンポも遅れていた。
小学校になれば、さらにそれが顕著になる。
漢字もなかなか覚えられないし、計算も遅かった。
球技なんて『ボールというボールに嫌われている』状態だし、
なんとか人並みにできたのは水泳くらいだろうか。
見た目も色白の貧相な体つきで、ガリ勉でも読書家でもないのに、
両親の遺伝のせいか中学生になる前には度の強い眼鏡をかけていた。
なんとか学校の成績は平均あたりをキープしていたが、
地味で目立たなくて、クラス替えがあるたびに一ヶ月以上も口を聞いたことがない級友が大半で、
会話を交わしたとしても次の日には忘れ去られてしまう、そんな存在だった。
そんな僕でもいちおう男子なので気になる女の子はできる。
小学生、中学生、高校生、そして大学生と周囲の環境が変わるたびに好きな女の子はいた。
年齢とともに行動範囲は広がるから学校だけではなく、通学中に見かける女性や、
よくいくコンビニ店員など、好きというか憧れる異性は必ずいたものだ。
だがまあ、その恋は実ったことがない。
僕自身の気持ちを相手に伝えたりしないからだ。
どうせ僕みたいな男は駄目だろう、相手になんてされないだろう。
元来、引っ込み思案で臆病な気質もあり、
『ただ見ているだけ』だった。
思春期、そして大学ともなれば、気になる彼女が他の男と付き合い始める。
――ああ、先に好きになったのは僕だったのに。
そんな思いを胸に、ただそれを虚しく眺め、見送るだけだ。
僕にとって恋愛は『そういうもの』だった。
社会人になってもそれは変わらない。
職場には男ばっかりだったけど、毎朝通勤途中で見かける女性がいた。
快速電車で毎朝同じ時間、同じ車両に乗るその人を僕は好きになってしまった。
僕と同じ駅から乗って、僕が降りる駅のふたつ手前で降りる。
ほんの十数分の彼女を見ていられる、その時間がささやかな楽しみだった。
あまりジロジロ見ていると怪しまれてしまうから、
スマホを見ているふりをして、視界の隅で彼女を捉える。
歳はいくつだろう? たぶん同じくらい?
なんの仕事をしているんだろうか?
趣味はなんだろう? 休日は何をしているのだろう?
いろいろ想像しては、彼女への思いを膨らませていった。
残業をした帰りの電車内。
今日も疲れたなとぼんやりしていると、途中の停車駅で彼女が乗ってきた。
こんなことは初めてだ。彼女もたまたま残業でもしたのだろうか?
朝、同じ駅で乗車するのだから当然同じ駅で降りる。
もし彼女が駅までバスや自転車を使用していたら、そんなことはしなかっただろう。
だが、彼女の自宅は駅から近いらしく、徒歩で駅前ロータリーを抜け、住宅街へ向かっていく。
いけないことだと思いつつ、僕はふらふらと彼女の後ろ姿を追っていた。
そして、歩いて十分足らずの住宅地に自宅があることを突き止めた。
二階建ての立派な一戸建て住宅だった。
地方から出てきて、六畳ひと間の安アパートで一人暮らししている僕とはえらい違いだな。
ここで彼女は生活しているのか……。
すこし彼女との距離が縮まったような気がして、気持ちが浮き立った。
彼女への想いはだんだんと大きくなっていった。
朝の通勤時に十数分、顔を見るだけでは物足りなくなってきたのだ。
しかし、帰宅時の電車で会うことは二度となかった。
休日の日、すこし早く仕事が終わった日など、ふらふらと彼女の家の近所をうろついたりしたが、偶然は起きなかった。
声をかけて、仲良くなれればいいが、そんな勇気はない。
いや、彼女の顔を見たい、ずっと眺めていたい。
それだけでいいんだ。
そうだ、あれだけ立派な家なら天井部屋があるはずだ。
彼女の部屋が二階にあることは、初めて後を尾けた日にわかっている。
彼女が家に入って数分後に灯りがついた部屋。
あれが彼女の部屋だろう。
あの部屋の真上、天井裏から彼女をずっと見守ることができたら……。
そしてある日、僕はそれを決行した。
誰にも見咎められずに家に侵入し、天井裏へ辿り着いた。
想像していたより天井裏は狭くて、埃で汚れていてクモの巣だらけだった。
でもそんなことはいい、一日のうち何時間も彼女を見ていられるのだ。
長い黒髪を梳かす彼女。
テレビやネット動画を見て笑い声を上げる彼女。
お風呂上がりや着替えで白い肌を惜しげもなくさらす彼女。
安らかな寝息を立てる彼女の寝顔。
すべて僕だけに見せてくれるものだ。
彼女はよほどのことがない限り、23時過ぎにはベッドに入る。
そして朝6時半に目覚める。
じつに健康的な生活だ、夜遅くまでネット動画やゲームをしていた僕とは全然違う。
彼女が深い眠りについた、深夜零時。
僕の秘かな愉しみが始まる。
埃で汚れてクモの巣だらけの天井裏から這い出し、
寝息が頬にかかるほど、
美しい黒髪から漂うシャンプーの香りが吸い込めるほどの至近距離から彼女の寝顔を眺めるのだ。
もちろん指一本触れたりはしない、彼女を起こしてしまうからね。
そんなことになったら、このロマンチックなひとときもおしまいになってしまう。
そうやってひと晩じゅう彼女のそばにいて、目覚めるまえにまた天井裏へ戻る。
そんな毎日だ。
スマホのアラームが鳴る。
朝の6時半だ、もう起きなきゃ。
アラームを止めて、知らず知らずのうちにため息が出た。
最近、寝覚めが悪い。あまりよく眠れていない気がする。
なにか心配ごとはあっただろうかと自問してみるが、思い当たる節はない。
もういちどため息をついて、気だるい身体をひきずるようにしてベッドを出た。
なんだか彼女の元気がないように見える。
朝起きたときに気鬱の表情を浮かべるのだ。
仕事で嫌なことでもあったのかな、それとも友達と喧嘩したとか。
できるなら一日じゅう彼女の側についていてあげたいが、
残念ながらそれはできない。
僕にできるのは天井裏から彼女を見守ることだけだ。
どうか彼女の憂いがなくなりますように。
ここ最近、気分がすぐれない原因を考えてみたがこれといったことはない。
ただ、毎晩おかしな夢をみる。
ベッドで寝ている私を誰かがじっと見つめている。
相手は男性だというのだけはわかるが顔はわからない、全身影のように真っ黒なのだ。
妙に現実感があるのだけど、実体がなくふわふわとしていて質量が感じられないのだ。
いつからだっけ、そんな夢を見るようになったのは。
一週間から二週間くらい……多分それくらいだと思う。
なんとなくだが視線や気配を感じることもある。
だが、ここは自分の部屋だ、そんなことがあるわけがない。
自分でもはっきりとしないのだが、『わけのわからないものへの恐れ』が、
不安というか心配事の種になっているように思う。
なぜだろう、どうしてこんな気病に取り憑かれたのだろう。
深夜零時。
僕はいつもどおり天井裏から這い出して、彼女の寝顔をうっとりと見つめていた。
ときおり長いまつ毛が細かく震えている。
愛らしい唇が救けを求めるように開いた。
流麗な眉間に皺がよる。
悪い夢でも見ているのだろうか?
起こしてあげたほうがいいだろうか……でも僕の存在が知られてしまう。
彼女の目が出し抜けに開いた。身を隠す余裕もなかった。
ただ、幸いだったのは目を覚ましたばかりで意識がはっきりしていなかったことだ。
僕は慌てて彼女から離れ、天井裏へと逃げ帰った。
昨夜の怖い出来事を父母に話した。
夢でも見たんだろう、と笑われた。
そう言われても仕方がない、夜中に自分の部屋に見知らぬ人間がいたなんて。
いつものおかしな夢を見ていた。
誰かが側に立って、じっと見おろしている。
圧迫感を感じて、はっと、目が覚めた。
見慣れた自分の部屋。
黒い影がのしかかるように私を見ていた。
小さく悲鳴を上げたときには、その姿は煙のようにすうっと天井に吸い込まれてかき消えた。
本当に人がいたなら物音も立てずに、素早く身を隠せるはずがない。
天井裏に誰かいる?
窓には鍵がかかっていたし、ドアの開閉する音も足音もしなかった。
そう、あれが生きた人間であるはずがない。
人間にあんな真似ができるはずがない。
子供の頃には「おばけ」「ゆうれい」といった存在を本気で信じていたものだけど、
いまはそんなものはいるわけがないと思っている。
でもそうじゃなかったら……?
あれが夢じゃなかったら……?
ぶるっと身体が震えた。
昨夜は危なかった。
まさか彼女が目を覚ますとは思わなかったんだ。
しっかりと僕のことを見ただろうか?
悲鳴を上げていたもんな、認識したに違いない。
だけど夢だと思っているようだ、本当に見知らぬ男が天井裏に潜んでいることを知ったら、
その後も変わりなく部屋で過ごすはずがない。
ただ、ときどき怯えたように周囲を見回したり天井を見上げるようになった。
僕は天井の隙間から彼女を見ているのだが、視線があったような気になる。
大丈夫、気づかれてやしない。
もし気づかれていたら、警察に通報されてくまなく探索され、僕は捕まってしまうだろう。
だけど何事も起きていない。
これからも彼女を見守っていこう。
思い出した。
いつから変な夢をみるようになったのか。
一ヶ月ほど前、いつも乗っている電車の駅で事故があった。
高架駅なので、階段を上がったところにホームがあるのだけど、
ちょうど私が階段を上がりきったところで後ろから悲鳴が聞こえ、ふりかえると、
多数の人が雪崩を打ったように転げ落ちていた。
幸い死者はいまのところいないけど、いまだに意識不明の重体の人がいるはずだ。
もうすこし遅かったら私も巻き込まれているところだった。
それから数日後から、あの夢を見るようになったと思う。
きっと、そのときの恐怖が悪夢とありもしない影を見せているのだ。
理由がわかったら、なんとなく気持ちが軽くなった。
今夜は久しぶりに早く寝よう。
今夜も彼女は綺麗だ。
憂いの影も消え、元気を取り戻したように見える。
よかった。
深夜零時。
彼女が熟睡したので、いつものように天井裏から這い出そうとしたが……。
どうもおかしい、身体が動かない。
なぜだ、何が起きた。
いつもなら、一瞬で彼女のそばへ移動できるのに。
……一瞬?
そういえばなぜ僕はそんなことができるんだ?
どうやって天井裏から物音も立てずに動ける?
そもそもどうやって天井裏に忍び込んだんだっけ。
気がつけばここにいたような気がする。
食事もせずトイレにも行かず、何週間も天井裏に潜み続けるなんてことができるはずがないのに。
いつから僕はここにいるんだろう。
思い出そうとすると頭が痛む。
そうだ、あの朝。
いつもの駅の階段で彼女を見かけて、その後ろ姿を追おうとして……。
前にいたサラリーマンにぶつかってバランスを崩して……。
そうだ、頭から叩きつけられて、目の前が真っ暗になって。
そして気がついたら彼女の部屋の天井裏にいたんだった。
ああ、頭が痛い、身体中が痛い。
目の前の闇に渦が巻いた。そこに吸い込まれていく。
いやだ、いやだ、いきたくない。
僕はここでずっと彼女を見守っていたいのに。
それが僕の彼女に対する『愛』なのに……。
目が覚めた。
久しぶりにスッキリした目覚めだ。
いつもの悪夢も見なかった。
天井を見上げる。
そもそも天井板なんて人の体重を支えるほど頑丈にできていない。
天井裏に誰かがいるなんておかしなことを考えたものだ。
私はふっと笑みを漏らしてベッドを出た。
朝食を摂っていると、朝のテレビニュースを見ていた母が、
「これ、この間の事故じゃない?」
というので画面に目を向けた。
〇〇駅の階段転落事故で意識不明だった男性が亡くなった、という。
私と同い年だったそうだ、気の毒に。
「だけど巻き込まれなくてよかったわね」
母の言葉に、そうだね、と頷いてコーヒーカップに口をつけた。
その日から悪夢も見なくなったし、おかしな気配も感じなくなった。