『それ』の噂が囁かれ始めたのは私が小学三年生になって間もないときだった。
薄暗くなった帰り道を一人で歩いていると、
頭上数メートル上の後方を飛行しながら後を尾けてくるものがある。
姿は小鳥のようで、スズメより大きく鳩より小さい。
羽ばたいているのだが、その音はいっさい聞こえない。
なんだろうと思って目を凝らすのだが、それの周囲には
ぼんやりと霧がかかっていて正体がはっきりしない。
立ち止まれば向こうもホバリングするようにその場で静止し、歩くとまた尾けてくる。
気味が悪くなって走ると、スピードを上げて追ってくる。
そして転んだり、歩行者や自転車と接触して怪我をするのだという。
小学校の児童たちは『妖怪だ』と言って怖れた。
そのうち夏休みになって、児童が登校しなくなるとその噂は途切れた。
そして学校が始まっても、追いかけてくる妖怪の話は聞かれなくなった。
いつしかみんな、その噂を忘れていったのだ。
ある日、私は委員会だかなんだかの居残りで遅くなり、ひとりで帰路に着いていた。
不意にピリピリと肌を刺すような感覚に襲われた。
(まさか……?)
振り返ると背後の空中、数メートル上に鳥のような飛行生物がいる。
これか、と思った。
妖怪かどうかは知らないけど、たしかに鳥とか既知の動物ではないことはわかる。
そして『あまり良くないもの』であることも。
羽音はしない、とのことだったが私には『ブブブブ……』という低い蜂の羽音のような音が聞こえた。
じっと見つめていると、こちらに向かって飛んでくる。
頭を下げてそれを避けた。
大きく旋回するとまたスピードを上げて飛んでくる。
横に飛んで避け、踵を返して走った。
ブブブ、と羽音が大きくなり、追いかけてくる。
道行く人とすれ違ったが、必死の形相で走っている私を怪訝そうに見るだけで、
後ろ斜め上を飛んでいる存在には気づかない。
(ターゲットになっている人間にしか視えてない……?)
助けになりそうなのは兄しかいない。
兄の優弥は三歳上なのでいまは六年生。
三年生の私より下校時間は遅い、まだ学校にいるはず。
学校に足を向けようとして愕然とした。
いつのまにか住宅街から離れ、通学路からも外れた、人通りのない道に出ていた。
ここを行くと工場跡や空き地が点在する寂れた場所に辿り着いてしまう。
私たちはその場所を『廃墟地帯』と呼んでいた。
出鱈目に追い回されていたわけではなく、どうやら廃墟地帯へ追い込まれていたようだ。
人の多いところへ戻ろうとすると、前に回り込まれて行くてを阻まれる。
そうこうしているあいだに廃墟地帯に着いてしまった。
周囲に人影はなく、工場跡や空き地に積み上げられた廃棄ゴミが不気味にうずくまっている。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
ほとんどパニックになりかけたとき。
「優香、こっちだ!」
聞き慣れた声が後方から飛んできた。
「お兄ちゃん?」
いつのまにか姿を現した兄がこっちへこいと手招きしている。
なぜここがわかったんだろう、と思うより先に足がそちらへ向かっていた。
「伏せてろ!」
兄が言うとぱっと何かを投げつけた。
キィィィッ!
『妖怪』がネズミのような鳴き声をあげる。
ばらばらと落ちてきたのは、たくさんの小石や砂といった石礫だった。
ギィィ! と激しく鳴いて妖怪が兄に向かっていく。
「お前はそこにいろよ!」
と言い置いて、兄は身体を翻して駆けていく。
廃工場跡に向かっているようだ。
「お兄ちゃん!」
私は思わず追いかけていた。
兄が振り返ってまた石礫を投げる。
妖怪は避けようとしたが、放たれた礫は大きく広がり、いくつかが命中したようだ。
また耳障りな鳴き声を上げて兄を追っていく。怒りに駆られているようだ。
兄が物陰に回り込んで姿が見えなくなる。
その後を追って妖怪がすごいスピードで飛んで行った。
バーン!
と、何かにぶつかったような音がする。
私は慌てて後を追った。
「あ……!」
シャッターが半分降りた工場の入り口。
そこに兄はしゃがみこんでいた。
そして地面の上で妖怪がのたうち回っていた。
あらためて見ると姿形はコウモリによく似ていた。
ただ、胴体の部分には大きな目がひとつ。
人間の目のようだ。
兄がゆっくりと立ち上がる。
側にあった鉄パイプを手にした。
キーキーと弱々しく鳴いて妖怪はふらふらと飛び去ろうとする。
その動きは鈍かった。
兄は狙いをつけて鉄パイプを思い切り振った。
ガツン、と何かを叩く音と断末魔のような鳴き声が響いた。
吹き飛んだ妖怪は工場の壁に叩きつけられて、地面に落ちた。
「お兄ちゃん……」
「なんだ、向こうにいろって言っただろ」
もがいていた妖怪の姿は消えていた。
「やっつけたの?」
「さあ。ああいう連中は死んだりするのかなあ……すくなくともこれであいつも懲りたんじゃないのか?」
コン、と音を立てて鉄パイプを杖のようにしてよりかかると兄の優弥が笑った。
兄が学校を出て歩いていると、同級生が声をかけて来た。
『お前の妹、なんか慌てて廃墟地帯へ走ってったぞ』
それを聞いてピンときたという。
で、駆けつけてみると妖怪に追い回される私を見つけたというわけだ。
シャッターが半分降りている工場があることは、兄は友達とここにちょくちょく遊びにきていて知っていた。
地の利は兄にあるというわけだ。
「投げた石や砂が当たったから、シャッターにもぶつかるだろうと思ったんだよ、あと鉄パイプで殴れるかもってな」
「お兄ちゃん……すっごいね」
あのスピードで追いかけてくれば物陰を回り込んだとき、勢い余ってシャッターに激突してダメージを受けるだろうと読んでいた。
兄は私と同じ体質ではあるけど、私ほどには鋭くない。
それだけに『人ではない存在』に対する恐怖心や警戒心が大きくないのかもしれない。
それがいい方に働くのか悪い方に働くのか……それはわかんない。
だけど今回は……。
「ありがとうね、お兄ちゃん」
「なんだよ、泣くなって」
言われて自分が泣いているのだと初めて気づいた。
「なんで私だけあれだけしつこく追っかけて来たんだろ、他にも見たっていう子達はいるけど、あんなに怖い思いはしなかったって」
「たぶん、あいつは人間に姿を見せるつもりはなかったんじゃないか? なのにおまえはあいつが視えた……こいつはほかの人間とは違うな、ってちょっと好奇心が刺激されたんじゃないかなあ」
「視えないふりって大事なんだね」
「ああ、俺もおまえくらいのころはよくわかんなくて周りの友達に話して変なやつだと思われたりしたからな……これからは気をつけろよ、なにより向こうの連中に視えていることを気づかれたらヤバいってことを忘れるな」
「うん……ありがと」
そのときわかったことがある。
人の魂、いわゆる『霊』だけではなく、全く別のところから生まれて来た『妖怪』、化け物みたいな存在がいるんだと。
そして自分自身の体質・能力は決してメリットじゃなくデメリットの方が大きいんだってことを。
夏の終わりにいつも思い出す、今後の人生の指標みたいなものを初めて意識した出来事だ。