エレベーターの女

オリジナルストーリー

数年前に体験した話だ。
その頃、付き合っていた彼女は稼ぎがわりと良く、二十代の独身女性にしては、結構いいマンションに一人暮らしをしていた。
週末は、よく彼女の部屋で過ごしており、その日も土産のワインを片手に向かった。
少し仕事が立て込んで残業したので、マンションに着いたのは夜の10時を過ぎていた。
マンションは11階建てで、彼女の部屋は最上階だ。
オートロックなので、インターホンの部屋番号を押す。
「今、下にいるよ」
マイクから『うん、わかった』という彼女の声が聞こえて、すぐに自動ドアが開いた。
エレベーターホールに行くと、二基あるエレベーターのうち、ひとつが1階に停まっていた。
ラッキー、と思いつつボタンを押し、扉が開くと、
(え……?)
中に人が乗っていたのだ。
長い黒髪に真っ赤なワンピース、白いハイヒールを履いた女性が、エレベーターの奥を向いて、つまり扉に背を向けて立っていた。
後ろ姿で、年齢はわからないが、雰囲気から若いと思われる。
両手を前に組んで、視線を足下に落として俯いているようだ。
微動だにしないので、降りるわけでもないらしい。

俺は、「すいません」と小声で言いながら、乗り込んだ。
『11』を押してから、おや、と思う。
行き先のボタンがひとつも押されていなかった。
つまり、この女性は、一階に停まっているエレベーターに乗り込んで、行き先ボタンを押さず、じっと立ち尽くしていた、ということになる。
(ちょっと『ヘン』な人なのかも?)
エレベーターの扉が閉まり、上昇し始めた。
俺は、階数ランプが上がっていくのを見つめた。
扉はスレンレス製なのか、鏡のように籠の中を映し出している。
当然、嫌でも視界に女性の姿が入ってくる。
鏡のように、鮮明でないボンヤリした像が、不気味さを際立たせていた。
ゴオオ……と、エレベーターが作動する音だけが響き渡る。
息を詰めて到着するのを待った。
いつもの、ほんの十数秒程度がやけに長く感じられた。
ゴトン、と軽い衝撃があり、エレベーターが止まって扉が開く。
逸る気持ちを抑え、平静を装いながら降りた。
だが、女性は降りてこない。

微かに金属が掠れるような音を立てて、扉が閉まる。
一緒に降りてこられたらどうしよう、と思っていたのでホッとした。
しかし、一階から乗ってきて、途中の階に降りず、最上階でも降りないなんて……。
あの女はなにがしたかったんだ? と思いつつ、その場を離れようとして気づく。
乗ってきたエレベーターの籠が11階に停まったままだ。

扉ひとつ隔てた向こうに、あの女がエレベーターを操作することもなく、後ろを向いたまま、俯き加減で、じっと立ち尽くしている……。

その光景が鮮明に脳裡に浮かび上がってきて、全身に鳥肌が立つ。
やばい、あの女、絶対におかしい……!

ほとんど駆け足で、彼女の部屋に向かった。
途中で振り返ったが、依然としてエレベーターは動いていない。
彼女の部屋の前に着き、再びインターホンを押す。
「俺だよ」
『はーい、今開けるよ』
彼女が鍵を開けてくれるまで、じりじりして待った。
あの女が、エレベーターから出てきたら……!
部屋番号を知られたくない……!
カチャ、と鍵を開ける音がすると同時に、俺はドアを開けた。
「わあ!」
中から開けようとしていた彼女が、驚いて声をあげた。
俺は彼女を押しのけるようにして、玄関に体を捩じ込んだ。
ドアを閉めるまえに、もう一度だけ振り返った。
俺が乗ってきたエレベーターは、まだ停まったままだ。
鍵をかけて、ホッと息をつく。
「どうしたの?」
彼女は怪訝そうな声を出す。
「いや、べつに……」
俺が彼女のほうに向き直ると、
「え、顔が真っ青だよ、ほんとにどうしたの?」
彼女が目を見開く。
「うん、とりあえずこれ……ちょっと洗面所借りるよ」
提げてきたワインバッグを手渡し、靴を脱いで洗面所に向かった。

鏡に映る俺の顔は確かに真っ青だった。
水道の水を叩きつけるようにして顔を洗った。
「ねえ、なにがあったの?」
洗面所の入り口に立っている彼女の顔も、すこし不安げだ。
「悪い、水もらえるかな」

彼女が浄水器から汲んでくれたグラスの水をひと息で飲み干した。
大きく息を吐き出すと、少し気分が落ち着いてきた。
「なんかあったの?」
彼女が心配そうに見上げてくる。
「いや、実はさ……」
先ほどの出来事を話すと、
「気味悪いね、それ」
と彼女も眉をひそめた。
「うん……でも、部屋は知られてないよ、エレベーターの扉は閉まったままだったから」
話しているうちに恐怖が薄らいできて、あんなに怯えた自分がなんだかおかしくなってきた。
相手は女なんだから、もしなにか仕掛けてきても刃物でも持っていない限り押さえ込めるはずだ。
彼女を不安にさせてしまって、かえって申し訳なかったかな、と思った。

土日はいつものように彼女の部屋で過ごし、何度か出かけるのにエレベーターを使ったが、女に出遭うことはなかった。
日曜の夜、彼女の部屋を出て、ひとりでエレベーターに乗るときは緊張したが、女の姿はなかった。
あの女がエレベーターで何をしていたのかは知らないが、たまたま間が悪かったのだろう、と思った。

その後、仕事が忙しかったり、週末に俺の部屋へ彼女が来たりして、しばらく彼女のマンションに行くことがなかった。
少し気になったので、変な女がマンションをうろついていないかと訊いてみたが、
「全然、私は見たことないよ」
と、彼女は明るく笑った。
やはりあの時は、たまたま行き合っただけだったんだなと安心した。

あの夜から一ヶ月経った週末、俺は彼女のマンションに向かっていた。
いつものようにオートロックを彼女に解いてもらい、マンション内に入った。
エレベーターホールに人はいなかったが、まだ時刻は8時になったばかりで、遅いというわけでもない。
二基あるエレベーターの籠が両方、1階に停まっている。
ちょっと嫌な気持ちになったが「なんてことないだろ」と、つぶやいて、『上』のボタンを押した。この前と反対側のエレベーターの扉が開く。
「うわ!」
思わず声をあげ、後ろに飛び退った。
長い黒髪に真っ赤なワンピース、白いハイヒールを履いた、あの女が、あの夜と同じように、背を向けて立っていたのだ。
全身に鳥肌が立ち、足が震えた。
女はじっと立ち尽くしたまま動かない。
しばらくしてエレベーターの扉が閉まった。
そしてそのまま、上階にも、駐車場がある地下にも行かず、1階で停止している。
(なんなんだよ、あの女は!)
その場で凍りついたように立っていると、マンション住民の中年男性が、エレベーターホールにやってきた。
立ち尽くしている俺を訝しげに見ながら『上』ボタンを押す。
さきほど女が立っていたほうの扉が開いた。
(……え?)
エレベーター内には誰もいなかった。男性は籠に乗り込むと「乗らないんですか?」と言う。
「い、いえ……あの……」
俺は、ありえない出来事に頭の中が真っ白になり、口篭っていると、男性はちょっと首を傾げて、扉を閉めた。
籠が上昇していき、7階で停まった。男性が降りたのだろう。
反対側の籠はまだ1階に停まっている。
震える手で『上』ボタンを押す。扉が開いた。
俺は今度こそ、悲鳴をあげた。
女が立っていたのだ、さっきと同じようにこちらに背を向けて。
俺は女から目が離せなかった。女も身じろぎひとつしない。
そして扉が閉まった。籠は動かない。
もうエレベーターには乗れなかった。
俺はホールの横にある非常階段を使おうとして、防火扉を開けた。
「ひ……!」
あの女が立っていたのだ、エレベーターの時と同じように。
踵を返し、マンションの正面玄関を走り出た。

気づくと俺の携帯が鳴っていた。彼女からだった。
いつまでも部屋に来ないので心配してかけてきたのだ。
「なにしてるの、遅すぎない?」
彼女の不思議そうな声に、
「ごめん、俺、無理だわ、今日は帰る」
返事を待たずに通話を切り、逃げるようにしてマンションを後にした。

その日を最後に、俺は彼女のマンションに行けなくなってしまった。
最初は彼女も心配して、週末は俺の部屋へ通うようにしてくれたが、いつまでもマンションに行こうとしない俺に、不満を漏らし始めた。
そのうち、関係がどんどん悪くなり、程なくして彼女と別れた。

あの女は普通の人間ではない……いや、この世の者ではないのは明らかだ。
何が目的で俺の前にあらわれたのか……いまだその理由は不明である。
そして考えたくないことだが、今後も俺の前にあらわれないという保証はない。

俺は今でも、1階で待ち構えているエレベーターに夜、ひとりで乗れない。

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