回廊の家

オリジナルストーリー

俺(南川圭介)は売れない物書きだ。
一応ホラー作家だが、それだけでは食えないので別ペンネームで官能小説を書いたり、
一文字一円からの副業webライター、月の支払いが苦しいときには派遣や日雇いのバイトとなんでもこなす。
そんなだから、三十歳になっても結婚はおろか、彼女さえもう二年以上いない。
いい加減身の振り方を考えないといけないのだが、物を書くことが好きなのと、
時間に縛られない自由でお気楽な生活がやめられず、親や親戚に説教されながらもズルズルと続けている。

ただ、金の管理はきちんとしなきゃいけないなと思い、
格安スマホに変えたり、安いスーパーを探したり、節電対策したりと出来るだけ出費を抑えることを常に模索している。
一番考えるべきは家賃だ。
いまは築30年以上経つワンルームマンションを塒にしているが、
なんだかんだでひと月五〜六万円は消えている。

もっと安くできないかと不動産情報を集めているが、なかなかこれというところがないし、重い腰が上がらない。
そんなとき、母方の叔母にあたる人物から、ちょうどいい物件があるからどうだろうかと声がかかった。

「少し交通は不便だけど、一軒家で家賃は月五千円でいいよ」と。

五千円だって?
心は踊ったが、すぐに飛びつくほどバカではない。
廃屋寸前で修繕に金がかかったり、インフラ関連が整っていなかったり、
本当に山奥の一軒家だったりと、あとあと問題が噴出するのではたまらない。
なので、いちど現地に足を運んで現物を見せてもらい、条件面などを詳しく聞かせてもらうことにした。

日にちと時間を決め、叔母の立ち会いのもと、現物の確認と説明を聞いた。
「どう、気に入ったかね?」
ひととおり見て回った俺に、叔母はにっこりと人懐こい笑顔を向けてきた。
この叔母というのもかなり変わった人で、もう五十歳になろうかというのに未だ独身で、
前衛的な絵画やデザインを生業にしている。
もう三十年近く、この家に住んでそういう仕事をしていたが、それなりに蓄えもでき、
年齢的にもそろそろ田舎の不便な生活が体力的に不安になってきたというので、
街の方にマンションを借り、そちらへ移り住みたいのだという。
ちなみに会ったのは二十年ぶりくらいで、記憶にある叔母よりは老けていたが、
年齢の割に若く綺麗に見えたのは、やはり独身で生活臭がないせいだろうか。

周辺は雑木林や田園が広がり、ご近所の家といっても、一番近いところでも百メートル近く離れていた。
そんな辺鄙な場所にポツンとある平屋の一軒家だった。
築年数は五十年以上と聞いていたが、手入れがよくされているのでかなり綺麗だった。
立地は辺鄙とはいっても、車で三十分とかからずに街に出られる距離だし、電気水道はきているし、トイレも水洗、ネットもきちんと繋がる。都市ガスより高いプロパンガスなのはネックだが、家賃が格段に安くなるので差し引きしてもプラスになる。
俺の仕事はネットさえ使えれば、なんとでもなるので問題はない。
そんな環境なので日雇い仕事などがなさそうだが、家賃が月五千円ならかなり余裕ができるから、
月の支払いが苦しくなってその場しのぎの仕事探しに奔走することもなさそうだ。
俺の気持ちはほとんど決まっていた。
「そうですね、かなりいいと思います、お願いできるなら……」
すぐにでも移りたいですね、と続けようとしたのを遮るように、
「ああ、決めるまえにひとつだけ話とかないといけないことがあるんやわ」
叔母が真面目な表情になった。
「え?」
台所で向かい合ってお茶を飲んでいたのだが、叔母は、おいで、と手招きをして玄関の方へ向かう。
俺は慌ててそのあとを追った。
玄関まで行くと、
「この家は部屋の周囲を囲むように廊下があるやろ、ちょうど回廊みたいに」
と、叔母は玄関から向かって左に伸びる廊下をすたすたと歩いていく。
突き当たると、曲がってまた歩き、また突き当たって曲がって歩く、を四回繰り返すと玄関まで戻ってくる。
「ちょうど家の中を時計回りに歩いて一周する形になるやろ?」
「はい……」
いったいそれがどうしたのか、と思いつつ頷いた。
「この家には『お廻りさま』がいらっしゃるんよ」
「オマワリサマ?」
「……まあ、神さまみたいなもんやな、そのお廻りさまが毎日、夜中の二時から二時半までさっきみたいに廊下を廻りなさるんや、だからその三十分間は廊下に出たらあかん、その姿を見てもあかん、どこかの部屋に閉じこもって決して出たらあかんのや」
「へ?」
俺はポカンとした。
叔母はこの家にはそういうものがいる、その存在を受け入れ、決まりを守ることがここに住むものの条件だと言った。
「それができへんというなら、この話はなかったことにするわ」
「いや、叔母さん……それ、マジですか?」
「子どもやあるまいし、そんな冗談言うかいな……でも、圭ちゃん、その手の話に詳しいやろ? そういうことはあんねん、世の中にはな」
仕事上、都市伝説や不思議な話、風習や伝承、土着信仰を調べて、そこからネタを見つけることも多かった。
「どうする? いま決めんでもええわ、普通に考えたらおかしなことやしな……ただ、一度移り住んだら簡単には出られんよ、出たかったら次に住むものを見つけなあかん。出かけたり留守にすることはできるけど、一週間以上家を空けることはダメや――私はそうやって三十年もここに住んでたんや」
俺は当惑して叔母を見つめた。
叔母も俺の顔を見返してくる。
「この条件が飲めんのやったらやめとき」

その日は一旦返事を保留して、俺は『お廻りさま』について調べてみた。
しかしネットはもちろん、図書館などでオカルトから民俗学の書物まで片っ端からあたってみたがなにも情報はなかった。
さて、どうするか……。
正直あんな気味の悪い話を聞かされて躊躇する気持ちもある。
だが、今後の仕事のいいネタになるかもしれないと考えてしまうのも、もう治らない宿痾みたいなものだ。
あの環境は生来人付き合いの苦手な俺にはうってつけの住処ではないか、と思う。

そして、あの家に住むものは食いはぐれることはないという。
住むものの生業としていることがうまくいったり、必ず仕事が舞い込み、大きく儲かることはないが出費することもないので、それなりに貯蓄も増えるのだと。
叔母は三十年かけて、無茶な贅沢はしなければ残りの人生は楽に暮らしていけるほどの蓄えが出来たそうだ。
俺は一週間後、叔母に承諾の連絡を入れた。

叔母は冷蔵庫やエアコン、電子レンジやテレビなど、ほとんどの家具や家電を残していくと言った。
俺はパソコンや書籍資料などの仕事道具や、愛着のある小さな家具以外は全て処分して身軽に引っ越すことができた。
すべての荷物が運び込まれ、いよいよ叔母と入れ替わりに、俺がその家に入居するようになった当日。
玄関前に叔母とふたりで向かい合って立っていた。
「ほんまにええんやね?」
「今更ですよ、もう荷物は運び込んじまったんだから」
俺が笑うと、叔母もそうやね、と笑った。
「ほな、最後の準備をするわ」
そういうと、
「わたしの後をついておいで」
叔母は玄関から家に入った。俺もそのあとを付き従う。
「前に一回やったみたいに時計回りに廊下を廻るんや」
古くなってもともとは何色だったかわからない、黒くなって擦り切れた板張りの廊下を歩くと軋む音が微かにする。
曲がり角の天井に近い小壁に神棚があった。
叔母は、
「いままでわたくしが務めさせていただきましたが、これにてお暇をいただきます。長きに渡りお世話になりました」
そういいながら手を合わせると、
「圭ちゃんは『わたしが次に参った者です、よろしくお願い申し上げます』って言いながら拝みなさい」
そう促した。
俺は手を合わせ、お辞儀しそうになったが、
「頭は下げずに神棚をまっすぐ見て。顔を覚えていただかんとあかんからな」
叔母がおかしなことを言う。訳のわからないまま、言われた通りにする。
神棚は廊下の突き当たりに祀られていた。
家の四隅にひとつづつ、つまり家には神棚が四つある。
最後の神棚を拝んだとき、家の中の空気が、
ぶうん
と、揺れたような気がした。
(なんだいまのは?)
俺は周囲を見回したが、とくに変わったことはない。

叔母は振り返らずに歩いて行くと、玄関を出た。
「これで引っ越しはすべて終いや、いまから圭ちゃんがこの家の主人やで」
「はあ……」
俺が頷くと、叔母はなにかホッと肩の荷が下りたような顔をして、
「さあ、私はもう行くわ。くれぐれも決まり事は守るように、これは絶対にやで……ほな元気でな」
叔母は家の前に停めていた車に乗って去って行った。

「ふう……やれやれ」
俺は寝室にしようと決めた部屋に寝転がった。
広い台所に十畳くらいの和室がふたつ……ひとりで住むには広すぎるくらいだ。
天井板の木の節を眺めながら、いままで住んでいたせまっくるしいワンルームにはない開放感に浸った。
ここに来る途中、コンビニで買ってきた缶詰や惣菜といった酒のつまみ的なものでビールを開け、それを夕食代わりとした。
引っ越しでバタバタするだろうと、ここしばらく仕事を詰めていて寝不足だったせいか、ビール二本でまぶたが重くなってくる。
時刻は夜の八時だった。
そろそろ盛夏になる時期だったが、このあたりは涼しいようだ。
エアコンなしでもじゅうぶんだ、電気代も安く済みそうだな……あ、でも冬は寒いのかな?
そんなことを考えながら、いつのまにかうたた寝をしていた。

ふと目を覚ました。
見慣れない天井に、
(ああ俺、引っ越したんだっけ)
と思い出す。
時刻は午前一時をちょっと過ぎたところだった。
午前二時から三十分間は廊下をお廻りさまが歩き回るから、その間は廊下に出てはいけない、その姿を見てはいけない……。
本当だろうか?
じつはまだ、この期に及んでもまだ半信半疑だった。
とにかくそれまでに寝る準備をしておくか……。
ざっとシャワーを浴び、歯を磨いて、パジャマ代わりのTシャツとジャージを着る。
廊下が見えないように襖を閉めて、部屋の明かりを消し、布団に潜り込んだ。
あと十分。
眠ってしまおう、と思った。
元来、寝つきはいい方だ。
しかし、なぜか眠れなかった。

ギシ……

微かに木の軋む音がした。
しかし木造の古い家だ、家鳴りくらいするだろう。
だが自然と耳を澄ませていた。

ギシ、ギイ、ギシ……

家鳴りとは違う……これは明らかに廊下を踏む足音だ。
この家の中を時計回りに何者かが移動していく。
心臓の鼓動が速くなる。
(馬鹿な……ほんとうに何かがいるのか、この家には)

ギシ、ギイ、ギシ、ギイ、ギシ、ギイ、ギシ……

足音は廊下をぐるりと廻り終えると聞こえなくなった。
俺は全身に冷や汗をかいていた。
夜が明けるまで、俺は部屋を出ることが出来なかった。

翌日も、さらに翌日も、深夜二時になると何者かが廊下を歩いているのを、
冷や汗をかきつつ布団の中でやり過ごした。
だが、引っ越してひと月が過ぎるころには、馴れてしまったのか緊張して眠れないなんてことはなくなった。
それどころか、夜に仕事をするときは襖を閉め切り、足音を聞きながらも作業し、二時半を過ぎると襖を開け放つ、ということを平然と行うほどになる。

さらに気づいたのは、家の中は明らかに住むのに快適な環境に保たれているということだ。
真夏の三十度を越す猛暑でも、室内はひんやりと涼しく、エアコンはほとんど使わない。
そしてこの家には虫が一匹も寄りつかない。
周囲を散策したり、庭を歩いているとき、昆虫をたくさん見かけた。
俺は虫が苦手なので、家の中で出くわすのは嫌だな、と思っていたのだが、
窓や縁側を開け放していても、羽虫や蟻の子一匹さえ侵入してこなかった。

暮らし向きも好転し始めた。
いままではこちらから声をかけて仕事にありつくのにも苦労していたが、
引っ越してから向こうのほうから声がかかって、ぼつぼつと仕事が舞い込み、単価も上がりはじめた。
これも『お廻りさま』のご利益なのか。

そうして馴れてくると、こんどは『好奇心』が芽生えてくる。
お廻りさまとは、住み着いた家に幸運や財をもたらすという『座敷童子』みたいなものだろうか。
それが何者なのか知りたいという欲求が湧いてくる。
引越しの手続きに役所へ行ったとき、そのそばに小さな図書館があったのを思い出した。
もしかしたらと、このあたりの歴史などを記した書籍がないか探してみた。
すると、自主出版のようなこの土地の民話集が一冊だけ見つかった。
ページを繰ってみると、『お廻りさま』の記述があった。
やはり、このあたりのいわゆる土着信仰のようなもので、その家の守り神と考えて良い。
祀る方法は家の四方、東西南北にそれぞれ神棚を祀り、その家の主人が時計回りに拝むことで、お廻りさまはその家と住人を守ってくれる。
主人が代替わりするときは必ず、家の中を一巡して挨拶をしなければならない、丑三つ時(午前二時から三十分)にはお廻りさまが家の中を巡廻なさるので、住人は部屋に篭るなどして、その姿を見てはいけない。
神様の姿を見てはいけない、いわゆる『見るなの禁止』は、日本神話や古い民話によくあるファクターだ。
それ以上の記述はなく、叔母に聞いた以上のことはなにも知ることはできなかった。

いまの家に引っ越して一年が経とうとしている。
俺の書いた本はベストセラーとまではいかなくとも、そこそこの部数を売り上げるようになった。
月々の支払いに追われることもなくなり、余裕のある生活を送れるようになっていた。

そして俺の『お廻りさま』を見てみたいという欲求は消えることがなかった。
いや、だんだんとその思いは強くなってきている。
見たらどうなるのか? 罰でも当たるのか?
叔母は見てはいけない、としか言わなかったし、図書館で見つけた民話集にもそのあたりの記述はなかった。
曲がり角のところで、後ろ姿を覗き見るだけなら大丈夫だろう。
いやいや、相手は神様だぞ、そんなのバレるに決まってるじゃないか……。
そんな葛藤を抱えつつ、その姿を見てみたいという欲望は日に日に膨れ上がってくる。

その夜、俺は部屋の明かりを消して息を潜めていた。
時刻が午前二時になり、いつものように廊下から、

ギシ、ギシ……

と、西にある神棚の位置からお廻りさまの足音が聞こえ始め、閉めた襖の向こうを移動していく。

ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……

ひとつめの角を曲がって足音がゆっくりと廊下を渡っていく。
俺はそっと立ち上がり、そろそろと襖を開けた。
常夜灯をつけているので、真っ暗ではないが、長い廊下の割に数が少なく、
光量も豆電球ほどしかないので薄暗く、数メートル先もよく見えない。
足音は角を曲がった先の廊下を進んでいる。
俺はゆっくりと足を踏み出した。ギィ……と音を立てる。
はっとして動きを止めたが、『お廻りさま』の足音は変わりなく移動していく。
できるだけ音を立てないように細心の注意を払ってそろそろと進んだ。

ひとつめの曲がり角に辿り着き、そっと覗いてみたが、
お廻りさまはふたつめの角をすでに曲がっていて、その姿を見ることはできなかった。
はやくしないとみっつめの角を曲がられてしまう……。
遠ざかっていく足音にちょっと急かされながら、それでも足音を立てないように、すり足で進む。

ふたつめの角に辿り着き、深呼吸をして覗く。
みっつめの角を曲がる人影が一瞬だけ見えた。
薄暗くてはっきりしなかったが、それは男のように思えた。
神様というからには、着物や法衣のようなものを着ていると勝手に想像していたのだが、
服装もありふれたシャツとズボンのようで、とくに変わった格好はしていない。

ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……

足音は変化なく進んでいく。
お廻りさまはそれほど敏感ではないらしく、こっちが立てる音には反応していないように思える。
次が最後のチャンスだ、俺は多少の音は気にせずに、いままでより足早に後を追った。

みっつめの角に辿り着き、そっと覗き、息を呑む。
いつもお廻りさまの足音が聞こえ始める西にある神棚の下に人影が立っていた。
やはり、ふつうの成人男性のように見える。
「あ……!」
人影は闇に溶けるように、すうっと消え失せた。
(あれがお廻りさまか……)
俺は全身水を浴びたように汗に濡れ、心臓の鼓動は早鐘のごとく打っていた。

それからしばらくのあいだ、夜は部屋でおとなしくしていた。
遠目にだが、その姿を見て好奇心が満足したことと、
『見るなの禁止』を破ってしまったことが、
(もしかしたらなにか罰を受けるかも……)
と、改めて恐ろしくなってしまったのだ。
だが、その後もいつもと変わらずお廻りさまは廊下をひとまわりするだけだった。
相変わらず仕事は順調だし、住み心地の良さも変わらない。
禁忌とか起請には意外とユルイ神様なのかもしれないな、と思った。

今の家に住み始めて五年になろうとしている。
滅茶苦茶儲かったりはしないが、仕事は好調で日々の生活には何の不満もなかった。
お廻りさまも相変わらずで、最近では巡回中に、わざと音をたててキーボードを叩いてみたり鼻歌などを歌ったりと、ちょっとからかってみるが、とくにご機嫌を損ねることはない。
無口な同居人か、どうかするとペットでも飼っているような気分になっていた。

日中は暑いが夜は涼しくなってきた晩夏の夜。
雑誌に連載していた、ホラー小説の最終回を脱稿し、ひと息ついていた。
早めに寝ようかと思っていたのだが、最近徹夜癖がついていたので、深夜までネットを眺めながら酒を呑んでいた。

ギシ……ギシ……

廊下から足音が聞こえ始め、ああもうそんな時間かと気づく。
以前に一瞬だけ覗き見たお廻りさまの後ろ姿。
その容姿はただの成人男性としか見えなかった。
しばらく忘れていた欲求が頭をもたげてくる。
もし前から見たらどうなる? どんな顔をしているんだろうな……?
お廻りさまは意外と音には無頓着だ。
後ろを尾けていた俺の足音にも気づかなかったし、部屋で物音を立てていても一向に気にする様子はない。
時計回りに廊下を歩くお廻りさま……そこを俺が逆に歩くようにして待ち伏せてみたら?
やってはいけない、と思うと、逆にやってみたくなる。
高層ビルの屋上から下を見ているときに飛び降りたらどうなる、とか、車を運転していて反対車線に飛び出していったらどうなる、と考えて試したくなってしまう、『ボイドの呼び声』という心理現象だ。
鉢合わせするのはまずいとしても、曲がり角を曲がってくるところを、次の曲がり角に身を潜めてこっそり覗き見るだけならバレないんじゃないか?

足音はひとつめの角を曲がったところだ。
今からならふたつめの角を曲がったところをみっつめの角から見ることができる……。
少し酔っていたせいもあるだろう、そう思うと実行してみたくてたまらなくなった。
前に書いた作品の資料のために買った単眼鏡型のナイトスコープを取り出す。
部屋の明かりを消し、ゆっくりと襖を開けて廊下に出た。

玄関から反時計回りに歩き、曲がり角にぴったりと身体を寄せた。
ナイトスコープに目を当てて、お廻りさまが姿をあらわすであろうひとつ前の曲がり角に標準を合わせる。
頼りない豆電球の灯りでもスコープ越しの視界はかなり鮮明だ。
そろそろお廻りさまが向こうの角からやってくるはず……。
ごくりと生唾を飲み込み、冷や汗が額を伝う。
やめるなら今だ、と思いながら俺はスコープを覗き続けた。

出し抜けにスコープ内に人影が映った。
(え……?)
全身に粟が立ち、頭身の毛も太るほどの衝撃が走る。
視界に映ったのは俺自身だった。
無表情な俺の顔。
「ひ……!」
慌てて顔を引っ込める。
なぜ俺と同じ顔をしているんだ?
なぜお廻りさまは俺と同じ姿形をしている?
なぜだ、なぜだ、なぜだ……!

――頭は下げずに神棚をまっすぐ見て。顔を覚えていただかんとあかんからな。

ここへ引っ越してきた日、叔母はそう言った。
あれは……こういうことだったのか?
『お廻りさま』は家の住人の姿を映しとることで、主人の代替わりを承諾し、守り神として存在していたのか?

ギシ……ギシ……

足音が近づいてくる。
とにかく部屋に戻らなければ!
その場で座り込みそうになるのを必死で叱咤しながら、震える足で部屋へ逃げ帰る。
部屋に飛び込み、襖を閉める。
「うわあ!」
真っ暗な部屋の中。
ぼんやりと白い光を全身に纏ったもうひとりの俺が立っていた。
今度こそ腰を抜かして、その場にへたり込む。
もうひとりの俺、いや、お廻りさまがゆっくりと近づいてくる。
馬鹿な考えを起こした自分を呪った。
見てはいけないと言われていたのに……!
なぜ、俺は禁を破ってしまったのか……。
「お、お許しください……!」
掠れた声を喉から搾り出す。
ぐううう、と顔を近づけてくる。
俺の顔をしたお廻りさまはまったくの無表情だ。
目を逸らしたくても逸らせなかった。
十センチほどまで顔が迫ってきた。

『オロカモノガ……』

わずかに口を動かすと、頭の中に直接その声が流れ込んできた。
「あ、ああ……!」
目の前の俺の顔が中心からぐにゃりと曲がった。
螺旋状に渦を巻くように顔が崩れていく。
「うわあああああああああああああ!」
俺は絶叫し、声が途切れるとともに意識も途切れた……。

私は車を停め、実にかつて住んでいた家の前に降り立った。
この家を譲った甥っ子ともう半年以上も連絡が取れない、と彼の両親が報せてきたのだ。
旅行に出た形跡などはなく、車も残ったままで、まるで甥っ子だけが家の中で煙のように消えてしまった、そうだ。
その家をしばらく眺め、ほっと溜め息をつく。
「しょうがない子やなあ……『好奇心は猫をも殺す』っていうやろ……オカルト作家のくせに『人智を超えた存在に対してやったらあかんこと』もわからんかったんかいな……」
私は呟くと、ちいさくかぶりを振った。

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