高校三年の夏休みも後半。
所属していた剣道部は夏の大会を最後に引退した。
試合結果は少し残念だったけど、全力を出し尽くしたので悔いはない。
あとは大学受験に向けて精励恪勤するだけだ。
予備校の帰り。
自習室で最終まで粘ったのでずいぶん遅くなってしまった。
駅の改札を抜けて駐輪所に停めてある自転車に乗る。
夏休みのせいか、駅前は人通りが多かった。
だから駅前から離れると、いつもよりも静かに感じられた。
古くて閑静な住宅街に入ったのでスピードを落とす。
街路灯が切れていて、暗い場所に差し掛かった。
雲が月を隠して、闇が濃くなる。
スピードをさらに落とした。
小さな人影が飛び出してきた。
ブレーキをかけて前輪を滑らせながら停る。
「お姉ちゃん、助けて!」
十歳……小学三、四年生くらいだろうか?
少年が自転車の前に立ちはだかるように手を広げていた。
「どうしたの?」
「向こうで友達が怪我しちゃったんだよ!」
少年が指差すのは、古いアパートだった。
もう廃業していて、灯りがついている部屋は一つもない。
近々取り壊す予定だとも聞いている。
立ち入り禁止のコーンバーが設置されていた。
「ここ、入っちゃダメなところだよ……友達はどこにいるの?」
「あっち、あっちだよ! お姉ちゃん、早く来て!」
ちょっと迷ったけど、自転車を路肩に停めて男の子の後に続く。
少年がくぐったバーを、私は乗り越えて敷地内に入った。
「どこ?」
「こっちだよ、こっち」
アパートの壁と塀のあいだにある細い犬走りに導かれる。
幅は1メートルあるかないか、灯りなどはもちろんなくて、
木切れや割れたバケツや植木鉢などが転がっている。
「ここの奥だよ」
少年が先に立って犬走りに入っていく。
私は一度深呼吸して足を踏み入れた。
湿り気のあるカビ臭い空気が漂っている。
「どこなの?」
「こっちだよ、こっち」
声を頼りに進んでいく。
どん、と後ろから腰のあたりを押された。
予期していなかったので、つんのめるようによろめいた。
膝をついて振り向こうとして――。
前の方から鳥の羽ばたきが襲いかかってくる。
耳元でつんざくような鴉の威嚇する鳴き声がした。
(まずい……!)
腕で顔をかばいながら立ちあがろうとした。
今度は後方から羽ばたきと鳴き声が襲ってくる。
前屈みになってそれを避けた。
それがさらに奥のほうへと入ってしまうことになる。
そこは行き止まりになっていた。
(しまった、追い込まれた)
ばたばたと羽ばたく風圧が髪を乱した。
黒い煤の塊みたいなものが、視界に映った。
姿ははっきりと具現化していない。
手で払おうとしたが、素早く離れていく。
足元に灰色の綿毛と小さな木切れのようなものがあった。
雛鳥の羽毛と骨。
これか。
これに近づいたから攻撃されたのか。
今度は前から鳴き声と羽ばたきが襲ってくる。
動物霊は総じて素早い。
顔と目を腕でガードしながら、後ろへ飛んだ。
ガアアア!
一際大きく威嚇の鳴き声が響いた。
二度、三度と後ろへ飛び退ると、犬走りから脱した。
ここまできたらもう襲ってこないようだ。
攻撃的な気配が薄らいでいく。
(ごめんね、テリトリーに入っちゃって)
顔をかばっていた腕を下ろし、前屈みの姿勢からゆっくりと体を伸ばした。
「ふう……」
まだ緊張は解かなかった。
背後の邪悪な気配を感じた。
後ろは見ずに腕を伸ばす。
手に男の子の肩が触れる。
さっき突き飛ばされたのだから、こちらからも触れられる、当然のルールだ。
「あッ!」
少年が驚いたような声をあげた。
「もう二度とこんなことしないで!」
肩を掴んだ手に力を込めた。
体温のない、質量の感じられない体だ。
へへッ、と馬鹿にしたような笑い声がした。
わずかだが、頭に血が昇るのが自分でもわかった。
「あまり調子に乗らないほうがいいよ」
ぐん、と勢いをつけて投げ込むように突き飛ばす。
「うわ!」
だだだっ、と前に倒れ込むようにして少年が隙間に体勢を崩して走り込んでいく。
鴉の怒りの鳴き声、羽ばたき、
「ぐわああああ!」
と、先ほどの少年の声とはかけ離れたおぞましい悲鳴が響き渡った。
私は汚れを落とすように手を擦り合わせながら、その騒ぎに背を向けて、
ふたたびコーンバーを跨ぎ越えて、その場を離れた。
あれは少年の姿を真似た『魔』だった。
時刻は午後九時をとっくに過ぎている。
そんな時間に、しかも向こうに友達がいるとか、
チョイスする姿も設定も間違っている。
まだ『魔』としては未熟だったのだろうが、
無関係な鴉の霊を利用して人間を傷づけようとするあたりタチが悪い。
人に物理的に触れることができるようなので、いっぱしの『魔』になると厄介だ。
まだ鴉の鳴き声と悲鳴は続いている。
これで人間は『怖いもの』だと認識してくれたらいいんだけど。
あの鴉は子育ての最中になにか事故に遭って巣に帰れなくなってしまったのだろう。
雛鳥たちも、帰ってこない親鳥を探して、屋根にあった巣から落下して死んだ。
親鳥は雛鳥を守るため、近づくものを遠ざけようとしていたに過ぎない。
ただ、近々あの建物は取り壊されるというから、その後どうなるだろう。
消えてしまうのかその場に残り続けるのか……。
安らかならんことを祈るしかない。
人ならざる存在を視たり感じたりする体質が疎ましいと思う。
幼いころから嫌な思いもたくさんしてきた。
少年が姿をあらわすまえから、気配は感じていた。
無視して通り過ぎてしまうこともできたし、いつもはそうするように心がけている。
だけどなぜか今回は相手にしてしまった。
今年で高校三年生。
両親からは春で剣道部を引退して受験に備えるように言われていた。
だけど、剣道は好きだし、なにより楽しかった。
無理を言って夏の合宿、そして大会まで部活を続けた。
やり切った、と思う。
ただ、なんとなく体の一部が抜け落ちてしまったような虚しさがあった。
勉強に集中し、受験が終わると高校も卒業だ。
そう考えると、もの寂しくなり、どこか捨て鉢な気分になったのかもしれない。
いつのまにか鴉の鳴き声は熄んでいた。
嫌な気配もしない。
そう、そのまま大人しくしていればいい。
私ももう関わるような真似はしないから。
灯りのついている街灯の下まで自転車を押して行って、
服やデニムパンツの汚れを払った。
ふと見上げると、雲に隠れていた月が顔を出して、柔らかく辺りを照らしていた。
(ちょっとどうかしてたな)
私は胸の内で呟くと、自転車に乗ってペダルを踏んだ。