『視える』ということ

オリジナルストーリー

(全くついていない……)
俺はため息をついてソファに寝転がったまま、ベランダのサッシ越しに空を見上げた。
清々しいほどの青空が広がっていて、刷毛ではいたような薄い雲が浮かんでいる。
ちょっと体の位置を変えようとして――腰に走る痛みに顔をしかめた。
ついてないな、と再びため息をついた。

一週間前の雨の日。
俺は営業車を運転していて、前の信号が赤になりそうだったので、減速しようとエンジンブレーキをかけた。
(雨の日に無理は禁物……)
雨足は結構強い。小学校の下校時間なのか、傘を差した子供達が信号待ちしているのも見える。
俺はブレーキランプを何度か点灯させながら、余裕を持って停車した。
と、いきなり後ろから激しい衝撃が来た。
追突されたのだ。
運転していた相手は中年女性。
なんとか黄色信号で行けるかなと思っていたら、前を走っていた車が停ったので、
慌ててブレーキを踏んだけれど、間に合わずにぶつかってしまった、という。
ドラレコにバッチリ映っていたし、俺にはなんの落ち度もなかった。
一応相手がブレーキを踏んでいたので、さほどのスピードではなかったとはいえ、
首と腰を痛めてしまった。
病院で検査を受けたら、首は軽いムチ打ち程度ちだったが、腰は椎間板ヘルニアになってしまった。
三日ほど入院して、とりあえず自宅療養ということになった。

相手は保険に入っていたし、当然労災認定されたので、金銭的には問題はなかった。
とりあえず一か月の自宅療養で様子を看ようということになった。
「災難だったな、まあ特別休暇だと思ってゆっくりしろよ」
課長の気の毒そうな顔を思い出し、苦笑が漏れた。
突然訪れた長期休暇だ、社会人になって大手を振って一か月も休めることなんてない。
こりゃ結構楽しめるかも、なんて思ったのは初日だけだった。
どこかへ遊びに出かけられるわけでもないし、買い物や散歩さえ行けない。
首はほとんど問題ないが、腰の方は力の入れ具合を間違えると、先ほどのように痛みに顔をしかめることになる。
一日じゅう家でテレビを観てるか、ネットを眺めるだけ。
妻の亜希子は仕事をしているので、朝から夕方までひとりきりだ。
そんな退屈なときが今日で五日目を数える。
(あとこんな生活が二十日以上も続くのか……)
俺はまたため息をついた。

眺めていたスマホをテーブルに置いた時だ。
視界の隅に何かが映った。
上階のベランダから、なにか布のようなものが垂れ下がって揺れている、と思った。
洗濯物でもひっかかっているのか? と、改めて見直してぎょっとした。
それは人の顔だった。
小学高学年くらいの女の子の顔が逆さになって上階のベランダから覗き込んでいる。
布に見えたのは長い髪が垂れ下がってたなびいているのだ。
その隣には小学低学年と思われる男の子が同じように、逆さ顔でこちらを見ている。
ふたりで、にこにこと笑っているのだ、姉弟だろうか?
俺が住んでいるのは市営団地で5階建てで、俺と亜希子の暮らしている部屋は4階だ。
パニックになりかけた頭の中で、考えたのは、
(上の階に住んでいる子どもたちが、ベランダの手すりの隙間から顔を出し、階下の部屋、つまり俺の部屋を覗き込んでいる!)
(早くやめさせないと危険だ!)
だった。
慌てて立ち上がったので、ズキン、と腰に痛みが走った。
だが、そんなことに構っていられない。俺は怪我以来、初めての小走りでベランダのサッシに駆け寄った。
「何をやってるんだ、きみたち、危ないぞ! 早く部屋へ戻って!」
サッシを開けると同時に、大声で言った。
だが、ふたりは全く動じず、にこにこと笑っているばかりだ。
『ねえ、おじさんのところに行ってもいい?』
と、女の子が言う。
(はあ?)
俺は一瞬何を言われているのかわからなかった。
『ね、そっちへ行ってもいい?』
『いまからそっちへ行くね』
ふたりが口々に言った。
(俺の家に遊びに来たいってことか? どうやって? まさか上のベランダから伝って来ようとしているのか?)
(もしそんなことをして、手を滑らせたらどうする? やめさせないと……)
わかったから、いったん部屋に戻れ、うちにくるなら玄関からおいで、と言おうとして……。
ゾクッと背筋に悪寒が走った。
無邪気な笑顔だと思っていたが、今こうやって見ているととても嫌な……邪悪な笑顔に見える。
それに、ベランダの手すりは格子状になっているが、いくら子どもの体が小さいとはいえ、
その間を頭と上半身がすり抜け、下の部屋を覗き込むなんてことができるはずがない……!
『おじさんのところへ行っていい?』
(違う、こいつら人間じゃない!)
そう悟るのと、
「駄目だ! 来るな、帰れ!」
と怒鳴るのが同時だった。
その声は昼下がりの静かな団地内に響き渡った。
相変わらず子どもたちは、にこにこと笑っている。
「来るな、帰れ!」
追い返すように手を振って、もう一度叫んだ。
ふたりは笑顔のまま、するすると上へ引っ込んでいった。
(なんなんだ、あいつらは……!)
俺はその場で座り込み、腰の痛みに、また顔をしかめた。

その日、仕事から帰宅した亜希子に、
「上の部屋に住んでる家族ってどんな人たちだっけ?」
と訊ねてみた。
「山本さんでしょ、何度か顔を合わせてるじゃない」
「ああ、そうだったっけ……子どもさんはいたっけ? 小学生くらいの」
「女の子と男の子がいるけど……確か上のお姉さんはもう高校生よ、下の男の子は中学生だったと思う」
「ふうん……」
「それがどうかしたの?」
「いや、昼間に小さな子どもが走り回るような音がしていたものだから」
「ご夫婦は共働きで昼間は誰もいないはずよ、お子さんたちだって学校でしょ、今日は平日なんだから」
「そ、そうだね、じゃあ、あの音はなんだったんだろう?」
「気のせいでしょ、もしかしたらこっそり猫でも飼ってたりしてね」
亜希子はそう言って笑った。市営団地なのでペットの飼育は禁止されている。
「そうかもなあ」
俺もなんとか笑い返した、と思う。

翌日もその翌日も子どもたちは上階から覗き込んできて、
『おじさんのところへ行っていい?』
『いいよね?』
と、不気味な笑顔を浮かべて問いかけてきた。
俺は必死でそいつらを無視し、昼間からカーテンを引いて視界に入らないようにした。
恐怖に震えながら数日が過ぎたが、やつらは声をかけてくるものの、部屋の中に侵入してはこないようだとわかると、すこし落ち着いてきた。
しかしなぜ急に俺の前に姿を現すようになったのか。
俺は今まで生きてきて、霊やら化け物など視たことはない……霊感などなかったはずなのだ。
それまでは凡人だったのに、事故で頭を打ったのを機に、特異能力を発揮したとかはよく聞く話だが……。
まさか、あの交通事故で受けた『衝撃』が潜在能力を目醒めたさせたというのか?
どうせだったら、もっと実用的な能力……記憶力やIQが爆上がりして欲しかったものだ。
しかし『人ではない存在が視える』ようになったら、今後どうすればいいのだろうか。
そういえば……中学時代に霊感があるという女子のクラスメイトがいた。
本人から聞いたわけではないが、周囲がそう言っていたのだ。
面白半分、からかい半分に、
「霊感があるってどんな感じなんだ? 霊と話したりするのか?」
と、聞いてみたことがある。
俺があまりにもしつこく聞くので、
「視えてないフリをするんだよ、ひたすら無視」
と、鬱陶しそうに答えていた。
能力で追っ払えばいいじゃないか、と言うと、
「そんなことはできない」
だそうだ。
霊を祓うような能力者なんてフィクションの中だけのお話、寺か神社で祓ってもらうか神頼み、それで効果があればラッキー、それが現実、という。
その子に相談してみようかと思ったが、何せ中学卒業以来会っていないし、親しくもなかった。
どうかすると、霊感があるというのを茶化すような態度をとっていたから嫌われていることも十分考えられた。
しかし、毎日あんな連中につきまとわれたのではたまったものじゃない、どうにかする方法を見つけなければならない。

知る限りの中学時代の友人に電話をし、彼女と連絡できるように頼み込んだ。
彼女もすでに結婚しており、地元を離れていて、なかなか連絡先をつかむことができなかった。
たいして親しくもなかった男が卒業して15年近く経ってから、元クラスメイトの女性を探して回ってるなんて、怪しさ満載なのだから当然だ。
それでもなんとか、彼女といまも友人付き合いをしている者に連絡をつけてもらった。
いちど、彼女に俺が連絡を取りたがっているということを本人に伝え、OKなら向こうの都合のいいときに俺の携帯に電話してきてもらう、ということで了承してもらった。

二日後。
真っ昼間からカーテンを閉め、やつらの声が聞こえないようにイヤホンでハードロックを聴いていると、ジャージのポケットに入れていたスマホが震えた。
液晶画面には見覚えのない電話番号が表示されていたが、俺は躊躇せずに通話ボタンを押した。
「はい、坂口です」
『……坂口くん? お久しぶり、水瀬です』
しばらく間をおいて、おそるおそるといった様子の女性の声が聞こえてくる。
水瀬優香。いまの俺には藁にも縋りたい気分で探し当てた救世主だ。
約15年ぶりになるが、ああ、確かにこんな声と話しかただったっけ、と思えるくらいに変わっていなかった。
明るく、活発な女の子で、美形でもあったので男子生徒にも人気があった。
いま思えば、彼女の『霊感持ち』の噂にかこつけて何かと話しかけたのは、彼女と仲良くなるきっかけを探っていたのかもしれない……結局、からかいすぎて嫌われてしまったかもしれないが。
結婚しているので水瀬は旧姓になるが、彼女が、水瀬でいいよ、というのでそう呼ばせてもらうことにした。
俺は今回の怪異のことを話し、なにか解決する手段はないだろうか、と尋ねた。
初めは警戒していたのか、よそよそしい口調だった彼女も話が進むにつれ、次第に真剣に聞いてくれているようだった。
『……そうかあ、大変だったね』
その声はとても温かく、親身になってくれているのがわかった。
『詐欺商材でも売りつけられるんじゃないかと思った』
と言って笑った。
まあそれも無理ないよなあ、と、俺も久しぶりに笑えた。

「それで……どう思う? いきなりそういうものが視えるようになるってことあるのかな?」
『うーン、そうだね。だいたい『視える』というのは、もともとそういう体質だというのがほとんどで、事故の衝撃がきっかけになったとかあまり聞いたことはないけど……実際視えるようになっちゃったんだからそうなのかもしれないね』
「最初は怖かったんだけど、もうそれより鬱陶しくってたまらないんだよ……どうにかして追っ払えないかな」
『……それ、いまもいるの?』
「どうかな……いまは」
俺はベランダに目を向けた。カーテンは引いてあるのでやつらは見えないが、
『ねえ、おじさーん』
『そっちいっていい?』
という声が微かに聞こえている。
「……まだいるよ、一日のうち何時間か出てきて話しかけてきて、しばらくいなくなって、また出てきてを繰り返しててさ」
『そっか……』
「盛り塩とか魔除けのお札って効果あるのかい?」
『さあね……そういうので退散してくれればいいんだけどね……相手次第かなあ』
いまひとつ心許ない言葉ばかり返ってくる。
「やっぱりさ……霊感があるからって霊を祓ったり消したりってできないものなのか?」
『うん……中学の時も言ったような気がするけど、ひたすら無視、そもそも変なところに行かない、近寄らない、くらいしかないかな……坂口くんがその子たちの存在を認識してることを、もう知られちゃってるんだよね?』
「ああ、初対面した時に思いっきり反応して話しかけちまったからなあ……変なとこに行かないことって言われてもここ、俺んちだし……水瀬、さんならどう対処した? やっぱり無視するだけ?」
『そうだね……子供のころから場数踏んでるから。あと、無害な相手かヤバいやつかってのもだいたいわかるし』
ベテランと初心者の差か……俺は初手から対応を間違ってしまったわけだ。
『だけど、その子たち、家の中にまでは入ってこないんだよね?』
「うん、ベランダの上から覗き込んで話しかけてくるだけでさ……」
『ふうん……なるほど』
そういうとしばらく水瀬さんは沈黙する。俺もそのまま彼女の次の言葉を待った。
『それは入ってこないんじゃなくて、入れないんだと思う。もともと人が住んでる家っていうのは、それだけで一種の結界になってるんだよ。そこで毎日生活しているだけで、『気』、っていうのかな、生命エネルギーみたいなものが溜まるから、そういうのを寄せ付けないんだよ、どう考えたって生きている人間の方がこの世のものじゃない存在より強いからね』
「へえ、そうなんだ、でも家の中で金縛りにあって、そのとき幽霊を見たとかよく聞くじゃん?」
『力の強いモノは結界をぶち破ってくるし、もともとそこが霊道で霊の通り道だったとか、ばっちり波長があっちゃったとか、変則要因はあるけどね……基本よっぽど強くてタチの悪いモノじゃないと入ってきたりはしないよ』
「そ、そうなのか?」
『多分ね』
多分かよ……まあ、連中は確かに家に入ってこないからそのあたりは安心していいのかもしれない。
『ただ、迎え入れないように気をつけてね……『そっちへ行っていい?』ってしつこく訊くのは、坂口くんの承諾を取り付けようとしているんだと思う。すこしでも気を抜いて、うっかり『入れ』とか『入っていい』みたいに言っちゃうと、その子たち、入ってくるよ』
「はは……そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ないな」
『あと、急に視えるようになったんでしょ? だったら一時的なもので、そのうちまた視えなくなると思うよ』
「ほ、本当か?」
「多分ね……はっきりとしたことは言えないよ、私は霊能者じゃなくてただ視えるだけ、だもん』
俺は思わず苦笑した。
だけど、水瀬とこうやって話しただけでずいぶん気持ちが楽になった。
「ありがとう、助かったよ……それと、あのときはゴメンな」
『え? なにが?』
「ほら、中学の時……俺、水瀬さんのこと、結構からかったりしてたろ、いまこうなってみてわかったよ、視えるって大変なんだな、と思って」
『ははは、気にしてないよ…………あ、ごめんね、うちの子起きちゃったみたい』
「子供、いるんだ?」
『うん、去年末に女の子がね」
「そうなんだ……おめでとう」
『ありがとう……あ、そうだ、坂口くんも結婚してるんだよね、奥さんには視えてないの?」
「うん、まったく視えてないよ、ウチは子どももまだいないしね」
「そっか……あと、奥さんには黙っていた方がいいよ、聞いている限り、その子たちは視えない人にはなにもできないみたいだから、変に知らせないでそのままにしておいて」
「うん、たぶん言っても信じないだろうけど」
「そうだろうね……あと、これは余計なおせっかいかもしれないけど、もしお子さんができる予定があるなら、その前にそこを引っ越したほうがいいと思う……子どもはそういう存在に反応する場合があるから」
赤ちゃんや幼い子どもは霊的なものが視えるっていうしな……確かにそれも考えなきゃいけない。
「うん、わかった、ありがとう」
「それじゃ、子供見ないといけないから、そろそろ……坂口くん、くれぐれも気をつけて……気持ちを強く持って相手に付け入る隙を与えないようにね』
「ああ、ありがとう、それじゃ」
そうして通話を終えた。

それからまた数日が過ぎた。
相変わらずやつらはベランダからしつこく話しかけてくるが、カーテンを引いて、すこし大きめの音量で音楽やテレビを流していれば、ほとんど声も聞こえない。
そのうち日に日に出現する頻度も減ってきたようだ。俺が完全にシカトを決めてるので、あきらめ始めているのかもしれない。
腰のほうもずいぶん良くなってきていて、ほとんどソファに座りっぱなしだったのが、まだ痛みはあるものの、それなりに動けるようになってきた。
体の快復とともに、あの化け物の件もいい方向に向かってくれればいいのだが。

だが、土曜日。
妻の亜希子が休みの日にそれは起こった。
朝から良い天気で、亜希子は洗濯をしていた。
まさか『化け物がのぞいてくるからカーテンを閉めてくれ』とも言えず、かといって、
あいつらがいるベランダを、洗濯物を干す亜希子が行き来しているので目を離すのも心配だ。
連中が彼女に何か悪さを仕掛けるかもしれない。
なので、俺はソファに座ってテレビを観ているふりをしながら、ちらちらとベランダを窺っていた。
亜希子は鼻唄を歌いながら、洗濯物を干している。
やつらは、
『ねーねー、おじさーん』
『そっち行ってもいい?』
『えへへ、おばさんも遊ぼうよお』
などと言いながら、亜希子の目の前に顔を突き出したり、俺の反応を見て楽しんだりとやりたい放題している。
(くそ、舐めやがって……!)
俺は気が気ではなかったが、亜希子には奴らの姿がまったく視えていないし、声も聞こえていない。どうやら物理的に触れたりもできないようだ。
(やはりこっちには入ってこれないし、視えない人間には何もできなさそうだな……そうやってピーピー喚いてろ、お前らの思い通りになんかさせてやらねえよ)
俺は、ふん、と鼻で笑って知らん顔を決め込んだ。
しばらくすると、奴らの声が聞こえなくなり、姿も見えなくなっていた。
(そろそろあきらめたか……)
内心ほくそ笑んでいると、
「正志(俺)、終わったからそっちへ入っていい?」
と、亜希子がいきなり声をかけてきた。
「え? いいけど」
反射的に答えて、はっとしてベランダを見た。
亜希子は俺に背を向けたまま、まだ洗濯物を干している。
ざわりと肌に粟が立った。
『ありがとう、おじさん』
『そっちへいっていいって言ったよね?』
奴らがとても嬉しそうな笑顔を浮かべ、首がにゅっとのびて逆さまのまま、うちのベランダへと降りてきた。
(こいつら……亜希子の声を真似て騙しやがった!)
奴らには胴体がなかった。顔の下の首は1メートルほどの長さで先へ行くほど細くなっている。ちょうど蛇の胴体に人間の顔がついているような、おぞましい姿形をしていた。
奴らは蛇のようにずるずると這いずり、部屋の中に入ってくる。
そして俺を見上げて、にいい、と笑った。
俺は呆然として、それを眺めるしかなかった。

その日から連中は部屋の中を這いずりまわったり、鴨居や長押から逆さまにぶら下がったりとやりたい放題だ。
発狂しそうになるが、亜希子を怖がらせるわけにはいかず、見て見ぬふりを続けるしかない。
そのうち、連中は、
『遊ぼうよお』
『おじさん、無視しないでよお』
と、話しかけてはくるものの、それ以上のことはしてこないようだと気づく。
そして日にちが経つと、ベランダに出て、今度は階下の部屋に向かって、
『そっちへ行っていい?』
『おばさん、見えないの?』
などと話しかけている。
もしかして、こいつら部屋を伝って下へ降りようとしているのか?
水瀬が、
『人が生活している部屋は一種の結界になっている』
と、言っていた。
だから、そこの住人の承諾を取らない限り、下へ行けないのだ。
いつから連中は上の部屋にいたのだろう、ずっと下へ降りようと俺や亜希子に話しかけていたのか?
そしてたまたま俺が『視える』ようになったから、5階から4階へと移動できたが、また3階へ降りるには、
下の住人の承諾を取り付けなければならない……しかし『視える』人間がいない限り、それは叶わないのではないか?
そのうちやつらは部屋の中に入ってくることがほとんどなくなってきて、ずっとベランダから階下の部屋に呼びかけている。
3階に住んでいる家族の中に『視える』人がいないのだろう……。
正直やつらが何者で、いつからこの団地に巣食っていたのか、どうして下へ下へと移動したがっているのか、理由はわからないし知りたくもない。
また、話を聞いてやってなんとかしてやる気もないし、そもそもそういう存在と変にかかわるのも良くないのだろう。
だからこそ、子供の時から『視える』体質だった水瀬は『徹底的に無視』していたわけだし……。
化け物がずっとここにとどまったままではたまったものではないが、承諾を取れぬ限り、やつらもここに釘付けのままなのだ……。
それはそれで哀れなのかもな、と思った。

そして事態はもっと変わってきた。
やつらが『視えなく』なってきているのだ。
最初は、ただ姿をあらわさないだけかと思ったが、そうではない。
やつらの姿がだんだんと薄くなってきているし、声もだんだんと小さくなっている、というより聞こえなくなってきているのだろう。
やはりあの事故のショックで一時的に『視える』ようになったが、怪我が回復するにつれて、もとの体質に戻りつつあるのだ。
一か月経って仕事に復帰して、しばらくは内勤で様子を看て、営業の外回りに戻る頃には、連中の姿も声もまったく感じなくなった。

ただ、この団地に化け物がいることを知ってしまっては、長く住む気にはなれなかった。
「どうせ子供ができたら広いところに引っ越そうって言ってたじゃないか、すこし早めるだけだよ」
亜希子に引っ越しを提案し、来年にはここより広い分譲のマンションに住み替えることに決めた。
最初は不思議がっていた亜希子も、いろいろマンションを内覧して気に入ったらしく、いまは引っ越しに向けてふたりで楽しみながら準備を進めている。

もはや、すっかり視えなくなってしまったが、やつらはいまも階下の住人に呼びかけ続け、たまにはこの部屋の中を這いずり、俺に話しかけたりしているのだろうか?

この世には『異形の者』が存在していて、それが『視える』人間もいる。

だが、一生それを知らずに過ごせるならば、それにこしたことはないのだ。

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