(まただ……)
昨日から視界の隅に黒い影が映るようになった。
なんだろうと目を向けると、なにもない。
目を擦ったり、まばたきを繰り返すと消えたりもする。
(疲れているのか……最近寝不足だしな……)
ここのところ仕事が立て込んでいて、深夜まで作業をすることが多かった。
ちょっと今日は早めに寝るか。
(あれ……?)
通勤電車の中、視界の隅に黒い影が映り、目を向けるとそこに女が立っていた。
赤い着物……いや、赤襦袢というものだろうか──それをしどけなく着崩した若い女だ。
そんな女が電車に乗っているというのに、周囲の乗客はだれひとりとして彼女に注意を払っていなかった。
いや、注意を払っていないとか関心がないとかというレベルではなく、周囲には女の姿が見えてない……?
まさか……俺だけが見えているのか?
ぞくっとした。
生きた人間じゃない……幽霊?
(そんな馬鹿な……)
俺には霊感というものなどはなかった。
子供の頃からその類のものを見た経験は皆無だ。
たまに金縛りに遭うくらい──だが、そんなものはレム睡眠と覚醒タイミングのズレが原因だと科学的に証明されている。
(まさか……?)
心当たりがない、わけでもない。
一週間ほどまえ、バイクで事故った。
愛車は廃車になったが、俺自身は奇跡的に擦り傷と打ち身程度で済んだ。
すこし頭を打っていたので検査をしたが特に異常はなかった、はずだった。
事故などで頭を打ち、特異能力が発現したという話はよく聞く。
もしや、あのバイク事故が切っ掛けで霊能力が発現したというのか。
信じ難いがあり得る……現にいま、他の人に見えないものが視えている。
(やばいな……)
こういう場合、視えていることが相手に気取られるとまずいとかいうよな。
視まいと思った。
しかし意思とは裏腹に、女から目が離せない。
長い黒髪に白い肌、切れ長の目、長いまつ毛。
鮮血を刷いたような真っ赤な唇。
彼女は凄絶までに美しく、柔らかに微笑んでいた。
深い泉のような瞳に吸い込まれそうだ。
いや、俺はひと目で彼女に魅入られていたのだった。
(また近づいてきている……なにか意味があるのか?)
彼女は視界の隅に遠慮がちに佇んでいたのが、日を追うごとに俺との距離を詰めてきている。
四、五日もすると彼女の顔が俺の視界の半分近くも覆っている。
仕事にも支障が出始めていた。
だが、そんなことはどうでもよくなっていた。
「きみは誰だ?」
「俺になにか言いたいことがあるのかい?」
何度も問いかけてみたが彼女は何も答えない。
ただ優しく、包み込むような微笑みを俺に向けている。
俺は彼女に完全に心を奪われていた。
すでに視界のほとんどは彼女の顔でいっぱいになっていた。
そういえば何日も仕事も行ってない。
ずっと一人暮らしの部屋で閉じこもっている。
何度も電話の呼び出し音が鳴っていたが、無視した。
時間を忘れて彼女と見つめ合っているだけでよかった。
急に騒がしくなったかと思ったら、救急車の音が聞こえてきて、俺は誰かに抱き抱えられ、部屋から運び出された。
周囲を慌ただしく駆け回る音と、病院独特の匂いがする。
お袋の泣き声と聞き覚えのない男の声が耳に入ってきた。
網膜剥離……重度の視野欠損……もう手遅れ……。
(どうしてそんな顔をしているんだ……)
俺の視界はすでに彼女の顔ですべて埋め尽くされていた。
それ以外、何も見えなくなった。
その日を境に、彼女の表情が変わった。
優しかった微笑みは消え失せ、唇が耳元まで裂けるように引き伸ばされ、血を塗ったような真っ赤な口が不気味に歪んだ。白い歯が剝き出しになり、切れ長の目は細く吊り上がり、底知れぬ暗い光を宿している。かつての美しい顔は、もはや人間のそれではなかった。
彼女は俺を嘲るように笑っている。
その顔が、俺の視界の隅から隅までを完全に覆い尽くした。
これから先、俺の視界には彼女しか存在しない。
朝も、昼も、夜も。
顔を背けても、目を開けていようと閉じていようと、彼女の恐ろしい笑顔が視界いっぱいに広がり続ける。
彼女は永遠にそこにいて、俺だけを見つめ、嘲り笑い続けるだろう。
美しい幻影に魅入られた代償は、一生、彼女と二人きりで向き合い続けることだった。
俺は、彼女の冷たい嘲笑の瞳の中に、永遠に沈んでいく。


