父が会社勤めをやめた理由

オリジナルストーリー

私の父が新入社員だったときの話。

1999年──人類が滅亡する予定の年であり、地獄のような就職氷河期の真っ只中だった。
息詰まる閉塞感。
見えない希望。
灰色の未来像。
それが父が社会に出た年だ。

「地球なんて本当に滅亡しちまえばいいと思ってたな」

父がいつか皮肉な笑いと共に言った言葉だ。
0.48倍という冗談のような有効求人倍率。
何社受けても不採用通知が届くだけ。
そんななか、中小企業とはいえ正社員として入社できたのは『奇跡』みたいなものだったと父は言う。

だが、いまほど労働者の権利は守られておらず、待遇は良くなかった。
安い賃金で、休日出勤やサービス残業、セクハラ・パワハラが当たり前のようにまかり通っていた。
令和の時代ならSNSで拡散されて大炎上するところだが、
いまと違ってインターネットは一部のコアなパソコンユーザーのものであり、一般に浸透していなかった。
体力も精神もすり減らされ、それでも簡単に音をあげるのは『甘え』だと自分に言い聞かせながら働いた。

その日も定時を過ぎても終点が見えない業務に追われていた。
フロアに残っているのは父を含めて三人だけ。
ちょっとひと息入れようと、席を立った。
廊下は消灯されていて、自販機の明かりだけが頼りなく周囲を照らしている。
そのころは自販機コーナーに灰皿も設置されていてタバコを吸うことができた。
タバコに火をつけ、深々と吸い込みながら缶コーヒーを買おうとして、財布を持ってきていないのに気づいた。

「ああ、しまった」
独りごちながら、小銭でも入れていなかったかとズボンのポケットをさぐっていると、
「よう、お疲れ」
と、後ろから肩を叩かれた。

「はい、お疲れ様です」
反射的にそう返しながら振り向くと、二十代後半と思われる男性社員が立っていた。
ちょっとゴリラを思わせる顔立ち。
髪はオールバックで、顎が張り肌が浅黒い。
スーツの肩パッドが滑稽なほど大きい。

「どうだ、調子は?」
親しげに話しかけてくる男性に見覚えがなかったが、年齢的に先輩であることはわかっていたので、
「はあ、まあ……それなりです」
と、曖昧に返した。
「それなりか。
まあ終電まで三時間もある、もうひと頑張りだなあ!」
男性はガハハと笑った。
笑い声が廊下の暗闇に吸い込まれ、妙に長く尾をひいた。
この人はいったい何が面白いんだろうか、終電まで働くのがそんなに楽しいのか?
父がちょっと呆れながら愛想笑いをしていると、
「ほら、これ飲んで元気出せ!」
男性がなにかを手渡してくる。
それはドリンク飲料のガラス瓶だった。
「さあて、俺はもうふた頑張りといくか」
男性は大きく腕を振ってぐるぐると肩を回しながらその場を離れていった。

呆気に取られてそれを見送り、ふと手にしたドリンク剤を見た。
封が切られて中身は入っておらず、ガラスはくすんでラベルも薄汚れている。
(え……?)
思わず彼を視線で追った。
その後ろ姿は、廊下の暗闇に溶けるように滲んでいき──ふっと、輪郭を失った。
父はその場に棒立ちになった。

慌てて部屋に戻り、いまあったことを話すと、
「ああ、まだあいつ、ここにいるのか……」
残っていた係長が暗い顔で呟いた。

ときは1980年代後半。
バブル期真っ最中の時期に係長は入社した。
日本じゅうが浮かれていた。
なにをやっても、なにを売ってもうまくいき、業績は鰻登り。
働けば働くほど給料は上がり、頑張った分だけ報われた。
企業戦士、などと持て囃された。
残業や徹夜をこなすのがステータスで誇らしいとされていた。
徹夜を何日も続け、会社で寝泊まりするような係長の同僚がいたそうだ。
仕事が早く終わった日は繁華街で飲み歩き、サウナで汗を流し、マッサージチェアで仮眠をとって会社に出る。
だが、そんな無茶な生活がたたったのか、ある日その同僚は自販機の前で倒れているところを発見された。
すでに心肺停止状態で、心臓麻痺だった、という。

『一日二十四時間は短すぎる、三十時間くらいにならねえかな』
彼はよくそう言っていたらしい。
そうだったらいいよな、そのぶん睡眠に当てたいぜ、と誰かが言うと、
『馬鹿だな、おまえ。
六時間長く働けるじゃねえか!』
彼はそう笑ったと、係長が苦笑して首を振った。
「そんなに働いてどうするんだって話だよな……死んじまったら働くこともできないじゃあないか」
24時間戦えますかというCMソングとともに流行ったのが、
まさにあの夜、父が受け取った栄養ドリンクの瓶だった。

父はそのすぐ後、会社を辞めて一年ほど外国を放浪した。
そのときの経験を活かして、輸入雑貨店を開いた。
きつい時期もあったが、自分の好きなことをやっているのだから苦にならなかった。

「会社のために働く、自分の生活や時間を費やして、ときには命まで……なんだかそれが虚しくなってな」

父はどこか遠くを見つめるような目をしてそう呟いた。
バブルに翻弄され、氷河期に沈み──時代の潮流に呑み込まれ潰されていった者たちの姿を思い浮かべているようだった。

いまもあの男は消灯された暗い廊下を歩いているのか。
肩を回しながら笑い、誰かに空のドリンク瓶を差し出しながら。
永遠に終電の来ない夜を「もうひと頑張り」と繰り返しているのかもしれない。

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