俺の通う高校では10月末に二日間にわたり文化祭がある。
一日目は学内公開、二日目が一般公開という流れだ。
我がクラスはこの地域一帯の歴史館というあまり集客の見込めない展示を開催していた。
二日目の一般公開になぜか妹が「ぜひ行きたい」と言い出した。
べつに面白いものなんかないぞ、と言ったのだが、どうしても行くと言って聞かない。
仕方がないので、妹とその友達を来賓招待枠に入れておいた。
うちの高校は在校生の招待がないと来場できないのだ。
当日。
妹の優香は友達とふたりで来校した。
「お兄ちゃん、今日はヨロシク」
「お兄さん、よろしくお願いいたします」
「ああ、はい、いらっしゃい」
妹の友達は森口佳奈といって、家に遊びにきていたときになんどか顔を合わせていた。
女の子をふたりも伴っているということで、
クラスメイトにひやかされたりイジられたりしながら、
我がクラスの歴史館を見て回る。
「あー、まあ面白かったよ」
ほんの五分ほどでざっと流し見したあと、妹は教室を出た。
「もお、優香……もっとキチンと見ようよ」
佳奈ちゃんがぶつぶつ言っている。
「おまえ、何しにきたんだよ」
俺もちょっと呆れ顔になる。
どう見ても歴史館を目当てに来たようには思えない。
「ね、お兄ちゃん、他のところ案内してよ」
「案内、っつってもなあ……」
「ホラ、よく話してくれる剣道部の先輩……コシジマリサさんだっけ、会わせてよ」
「な、なんでそうなるんだよ、会ってどうする」
こいつ、理沙先輩が目当てだったのか?
「あれだけ色んな噂を聞いたらさー、気になるじゃん」
「あのなあ……」
優香が意味ありげに笑う。
俺と妹の優香は人ならざる存在が視えたり感じたりする『霊感体質』である。
そして俺が所属している剣道部の一つ上の越嶌理沙先輩はさらに強力な霊感体質だった。
その特異体質のおかげで、色んな『霊体験』に巻き込まれたり、巻き込んだりしたのだが、
そのことを話すと、優香はとても興味を示していたのだ。
夏の大会を最後に剣道部を引退した理沙先輩は、
特異な感覚を共有できる同志として、頼れる存在である。
いや、頼れる、というかそれ以上に俺は……。
「色んな噂ってなんなの?」
佳奈ちゃんが首を傾げる。
「スゴク綺麗な人なんだって」
「へえ、そうなんだあ……もしかしてお兄さんの彼女さんだったりします?」
「い、いや、違うよ!」
だったらいいんだけどな。
「とにかく行こうよ、三年生の教室は上の階だよね」
優香と佳奈ちゃんがパンフレットを見ながらすたすたと歩いて行く。
「おい、ちょっと待てって!」
俺は慌ててふたりの後を追った。
三年生のフロアに着く。
お化け屋敷やら展示教室やらカフェなどが催されており、
たくさんの生徒や来客者が行き来している。
「ねね、先輩のクラスって何やってるの?」
「…………神社カフェ」
もうここまで来たら止めようがなかった。
理沙先輩のクラスは神社をコンセプトにしたカフェをやっているのだ。
神主や巫女さんの格好をした生徒たちが接客するコスプレカフェみたいなものだ。
「いらっしゃいませー」
段ボールで作った鳥居をくぐり、狐や狛犬の絵が貼られている教室に入る。
巫女の格好をした女子生徒が案内してくれるテーブルに着いた。
「ねね、どの人?」
「うーん……今いないのかな、休憩中かも」
できれば席を外していてくれることを祈りながら見回していると。
「あれ、水瀬くん」
背後からいきなり声をかけられて飛び上がる。
「わ! せ、先輩、お疲れ様ですッ!」
巫女姿の理沙先輩がいつのまにか後ろにいた。
「昨日も来てくれたのに……そんなにここのお茶、おいしかったの?」
にこりと笑う理沙先輩。
優香と佳奈ちゃんが興味津々といった目で見ている。
「あ、あの、こっちは俺の妹で優香です、こちらはその友達で……」
「水瀬優香です、兄がいつもお世話になっております」
「優香の友人の森口佳奈です、今日は一緒にお邪魔しました」
ふたりが立ち上がって深々と頭を下げる。
「ああ、妹さん……と、お友達ですか」
理沙先輩が意味ありげな視線をよこす。
兄妹揃って『霊感体質』であることは先輩に話してある。
「どうもご丁寧に。
私は越嶌理沙と申します、水瀬くんと同じ剣道部だったんですよ」
「はい、兄から聞いてます、とても頼りになる先輩だと」
顔を上げた優香と理沙先輩の視線が絡み合う。
ぱちっと火花が散った、ような気がした。
ふ、と優香が先輩から目を逸らし、俺を見た。
何かいいたげな顔だ。
「こちらがメニューです」
先輩がにこにこと手渡すメニューを優香も笑顔で受け取る。
「ありがとうございます……えーと、なにがおすすめですか?」
「そうですねえ……」
にこやかに雑談が始まる。
(一瞬だけど、すごい緊張感だったな……。)
『霊感持ち』同士、互いに相手の力量を量ったのだろう。
妹の霊感は俺より鋭いが、先輩には及ばない。
お稲荷キツネのオレンジジュース、狛犬の緑茶とか如何にもなネーミングのメニューを頼み、
いったん理沙先輩が下がっていく。
「いやあ……綺麗な人だよね」
「うん、見とれちゃった」
優香と佳奈ちゃんが感嘆の表情で言った。
「うん、それに……」
優香はそこで言葉を切る。
「なあに?」
「いや、スタイルもいいなあって」
「そだね、背が高くて羨ましいなあ」
優香が俺の顔を見て意味ありげに頷く。
きっとこいつにはわかったのだろう、理沙先輩の霊感が尋常じゃないってことが。
ふたりはまだまだ理沙先輩と話し足りなさそうだったが、
「忙しいんだから迷惑かけるな」
と、追い立てるようにしてドリンクを飲み終えて早々に退出した。
「さて、つぎはどこへ行こっかなあ……」
「体育館のほうはいま何やってるんですか?」
「ちょうど演劇部の舞台じゃないかな……そのあと有志のバンドがライブをやるらしいけど」
「あー、じゃそれ観に行こうか、そのまえになんか食べたいなあ、屋台とか出てないの?」
「中庭のほうで定番の焼きそばとかクレープとかかな、あまり旨くもないけど」
ふたりの相手が面倒くさくなってきたので、ちょっと剣道部のほうを手伝ってくる、と口実を作ってその場を抜け出した。
剣道部の出し物は紙風船を5秒の間に竹刀でいくつ割れるか、その数に応じて賞品を出す、
という完全な子供向けだったし、さほど人気もなかったので手伝う必要もなかった。
俺の当番は昨日だったので、ちょっとだけ顔を出すとやっぱり閑古鳥が鳴いている。
暇そうにしている部員としばらく話をして、また校舎に戻った。
各クラスの催し物をなんとなく眺めながら、そろそろふたりの御守りに戻った方がいいかな、と思いながら廊下を歩いていた。
いきなりだった。
全身に鳥肌が立った。
(やばい……!)
思わずその場でしゃがみ込みそうになったが、周囲の生徒や来客者たちは気づいていなさそうだ。
まるで水中で目を開けているみたいに周囲はぼやけて見えた。
周りの音が耳栓越しに聞いているように遠くなる。
(なんなんだ、これは)
とりあえず、柱の陰に身を寄せて様子をうかがった。
これは間違いなく『この世のものでないもの』が近づいたときの気配だ。
だが、周囲にはそれらしき姿は見えない。
こんなに強烈で異様な気配を発しているのに……。
しばらくすると馴れてきたのか、周囲の景色がはっきりしてきて音も正常に聴こえるようになった。
だが、異常な気配は薄れる様子がない。
それどころかどんどん濃厚になって膨れ上がってきている。
(いったい何が起こったんだ……理沙先輩や優香は大丈夫か?)
きっとふたりもこの異変に気づいているに違いない。
「水瀬くん!」
後ろから声をかけられた。
理沙先輩だった、もう制服に着替えている。
その顔色は血の気がひき、紙のように白くなっていた。
俺も多分同じような顔色をしているんだろう。
「せ、先輩、無事でしたか?」
「うん、きみは大丈夫?」
「はい……いったい何事なんでしょう、これは」
「わかんない、こんなの初めてだし……ね、妹さんは?」
「たぶんまだ中庭に……」
「行こう、普通じゃないよ、これは」
「はい」
俺と理沙先輩はなにも感じていないらしい人たちの間を縫うようにして中庭へと向かった。
一階へ降りて昇降口の扉から中庭に出たところで、
「お兄ちゃん!」
と、優香が血相を変えて俺たちの方へと走ってきた。
「大丈夫か?」
「うん、私は大丈夫……なんなの、これ」
「さあ……」
理沙先輩の顔を見たが、小さく首を振るばかりだ。
「あれ、お友達は?」
「佳奈はお手洗いです……ここにくる前にあった一番近いトイレに行くって」
ここから一番近いといえば、一階の廊下の突き当たりにあるトイレだ。
「大丈夫でしょうか?」
「そうだね、私たち以外の人たちには影響はないみたいだけど……」
周りの人たちは相変わらず何事もなかったように屋台や出し物を楽しんでいる。
優香は寒そうに体をすぼめて不安げだ。
理沙先輩はちょっと考え込むような顔をしていたが、
「やっぱり捜しに行こう、この気配は異常すぎるよ」
そう言うと、先に立って校舎内へと入っていく。
俺と優香も後に続いた。
校舎内のほうが異様な空気が濃くなる。
いったいどんな化け物があらわれたのか……。
トイレ内を捜していた理沙先輩と優香が出てきた。
「いたか?」
「いないんだよ、どこ行ったんだろう……」
優香は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「大丈夫、落ち着いて。
もう一度中庭に戻ってみましょう、行き違いになったかもしれないし」
理沙先輩は子どもに言い聞かせるような口調で言うと優香の肩を優しくさする。
「はい……」
優香も小さな子どものように頷く。
嫌な気配はさらに濃くなり、耐えきれない寒気に身震いした。
中庭に戻ろうとして、優香が声を上げた。
「あれ、佳奈じゃないかな」
指差す方向を見ると、行き交う人の間を歩いている後ろ姿が見えた。
髪型や服装はたしかに佳奈ちゃんだ。
昇降口を通り過ぎ、そのまま奥の方へと歩いていく。
「佳奈、どこいくの、ここだよ!」
「優香さん、気をつけて! 不用意に動いちゃダメ」
「優香、待て!」
俺と理沙先輩が声をかけたが、慌ててしまっている優香はその場から駆け出してしまう。
「水瀬くん、油断しないでね」
「はい」
目を合わせて頷きあうと、優香の後を追った。
一番端の階段の前で優香が立ち尽くしていた。
この周辺には催し物などはなく、人通りも閑散としている。
「この部屋に入ったみたい……」
階段下にあるドアを指差した。
そこは掃除用具や使わない机や椅子を入れてある倉庫だ。
ドアの隙間から嫌な空気が漏れ出している。
どうやらここが震源地のようだ。
「佳奈……!」
優香はドアノブに手をかけた。
やめろ、という俺の制止を聞かずにドアを開ける。
洞窟の風穴のようにぶわっと気配が溢れ出た。
なんともいえない不快感が全身を襲う。
「え? なに……」
優香が立ち尽くし、俺と理沙先輩はその肩越しに部屋の中を見て息を呑んだ。
ドアの向こうは地下に降る階段が伸びており、ほんの先は暗闇に覆われていて見えない。
「この学校、地下階があるの?」
優香が振り返って問うたが、俺は首を振ることしかできなかった。
ただの倉庫のはずだ、地下に続く階段なんてあるわけがない。
そのとき、闇の中から、
「優香ー、優香ぁー」
と、女の子の声が聞こえてきた。
「佳奈! どうしたの、大丈夫?」
止める間もなく優香が足を踏み出した。
「おい、待て!」
「気をつけて、優香さん!」
俺たちの声は聞こえないようで、優香が階段を駆け降りていってしまう。
ビルにあるような鉄階段だ。
理沙先輩が決心したように表情をあらためた。
「まずいよ、私たちも行こう」
「でも危険です、先輩はここで待っていてください、俺がふたりを連れ戻します」
「ううん、一緒に行動したほうがいいよ……たぶん呼ばれてるんじゃないかな」
「え、俺たちが、ですか?」
俺は理沙先輩の顔を見返した。
「悪意は感じるけど……それほど邪悪ってわけでもないから、最悪な結果にはならないと思う……バラバラに動くほうが危険だよ」
悪意は感じるけど邪悪なものではない……正直いって俺にはその違いは感じ取れないけど、理沙先輩がそういうならそうなのだろう。
とにかく優香まで見失うわけにはいかない。
迷っている暇はなかった。
俺と先輩は優香のあとを追って階段を駆け降りた。
闇に溶けそうな優香の後ろ姿を見失わないよう、慎重に階段を降りる。
何段あっただろう、かなり長い時間下って、階段が途切れた。
「佳奈ー! 佳奈あー、どこ? どこにいるの?」
優香が暗闇に向かって声を上げる。
周囲は真っ暗で、狭いのか広いのかさえわからない。
ぼんやりとした灯りがどこからともなく差し込んでいて数メートル先が見えるだけだ。
普通に考えればこの空間は地下室になるはずだが、だだっ広い草原にいるような風も吹いている。
「水瀬くん、気をつけて」
理沙先輩が鋭く囁いた。
前方に人影が現れたことに俺も気づいていた。
「優香……優香、きてくれたの?」
黒い人影が近づいてくる。
佳奈ちゃん、のように見えるが……。
「佳奈! 大丈夫?」
駆け寄ろうとした優香の肩を理沙先輩が押さえる。
「優香さん、待って!」
「……越嶌さん?」
怪訝そうに振り返る優香を制して、先輩が一歩踏み出した。
「あなた、誰? 佳奈さん、じゃないよね?」
理沙先輩が静かな口調で言う。
佳奈ちゃんがすっと無表情になる。
「私たちをここに呼びたかったんでしょ、もう目的は果たしたよね、出ていきなさい」
先輩が言い終わると同時に、佳奈ちゃんの背後から黒い霧のようなものがふわりと立ち上がって宙空に消えていく。
俺と優香は絶句した。
なにかが取り憑いていたんだ……気づかなかった。
ぐらりと佳奈ちゃんの身体が揺れた。
「佳奈!」
優香が悲鳴を上げるのと、理沙先輩が佳奈ちゃんを抱き止めるのが同時だった。
「佳奈、佳奈! 大丈夫!」
優香が泣きそうな声で駆け寄る。
「心配ないよ、気を失っているだけだから」
目を閉じて眠っているような佳奈ちゃんの呼吸はしっかりしている。
肩を揺する優香を理沙先輩がそっと制した。
「起こさないほうがいいよ、怖い思いをさせるだけだから」
「越嶌さん……」
「佳奈さんは囮に利用されただけ。
霊感体質の私たち三人をこの空間に引き込むのが目的だったのよ……なにをするつもりか知らないけどね」
理沙先輩が黒い霧が消えていったあたりを厳しい目つきで睨んだ。
ぞくりとして背後を振り返った。
さっき降りてきたはずの階段が消え失せ、暗幕を下ろしたような闇があるだけだ。
「先輩、階段が……」
俺の声に理沙先輩と優香も後ろを振り返って息を呑む。
その代わりに前方を白っぽい光がぼんやりと照らしている。
まるでこちらへ来いといざなうようだ。
「行くしかないみたいだね」
理沙先輩が決然と言った。
理沙先輩が先頭に立ち、その後を優香、俺は意識のない佳奈ちゃんを背負っていちばん後ろを歩く。
しばらく歩くといきなり前方に人が現れた。
向こうも複数人いるようだ。
「え?」
理沙先輩が驚いて声を上げる。
「先輩! さがってください!」
こんな空間で出会うのが普通の人間であるはずがない。
俺は理沙先輩と相手の間に割って入ろうとした。
「大丈夫、鏡だよ、これ」
「ええ?」
理沙先輩の落ち着いた言葉に、俺と優香も前へ出る。
俺たちの姿が映っていた。
確かに鏡だった、それもとても大きな……というより壁のように行手を阻んでいる。
「これじゃ前に進めませんね」
優香が困惑した表情で理沙先輩の顔を見る。
「迂回しろってことかなあ……」
俺は佳奈ちゃんを背負い直すと、しばらく右へ歩いてみた。
鏡はずっと向こうのほうまで続いている、左へ行っても同じだろう。
「戻りますか……」
優香が不安げにいうと、
「ううん、もしかしたら……」
理沙先輩はそっと鏡に手を伸ばした。
その手が鏡面に触れ――たかと思うと、すっと鏡の中に沈み込んでいく。
「せ、先輩!」
「どうやら鏡の中を進まなきゃいけないみたい」
理沙先輩は振り返って微かに笑うと、そのまま前に進んだ。
全身が鏡の中に呑み込まれていく。
「お兄ちゃん……」
「どうやら行くしかないみたいだな」
俺と優香も鏡に向かって足を踏み出す。
ポチャン、と水が跳ねるような音を立てて鏡の中へと入った。
「じゃあ、行くよ」
先ほどのように理沙先輩、優香、俺の順でぼんやりした白い光を頼りに歩いた。
ふたたび前方に人影が現れる。
今度は俺たちの鏡像ではないようだ。
人影はひとつで小さな男の子だった。
慌てて前に出ようとする俺を理沙先輩が制した。
「何があっても黙っていてね、私にまかせて」
そういう間も理沙先輩は子どもから目を離さない。
しばらく睨み合うようにしていたが、男の子がにこりと笑う。
「お姉ちゃんたちにいくつか質問しないほうがいい?」
「ううん、してみて」
「向こうから来たの?」
「ううん、来てないよ」
「ここ、楽しくないでしょ?」
「すごく楽しいよ」
「僕のこと、怖い?」
「ううん、怖くないよ」
男の子の問いかけにすべて否定で答える理沙先輩を、俺たちはぽかんとして見守っていた。
「ここから出たい?」
「べつに出たくないね」
男の子はまた笑うと、すっと姿を消した。
「もう大丈夫みたい、行こう」
理沙先輩がすたすたと歩き始め、その後を慌てて追う。
ふたたび目の前に鏡の壁が現れ、同じようにすり抜けた。
「なんだったんですか、いまの」
「向こう側の住人は現世とすべて逆のことをしたり言ったりするって聞いたことある?」
「ああ、それって……」
いわゆる逆さごとというやつだろう。
葬儀などで死者に着物を逆に着せたり、北枕にしたりすることだ。
怖い話、怪談では『裏拍手』などがメジャーだろうか。
「あの子は私たち側の住人ではないからね、逆のことばかり聞いてきたんだよ」
「……え? でもあの質問は逆ってわけでもなかったじゃないですか、どっちかというと先輩の答えが逆だったんじゃ……」
「あそこは鏡の中だったからね、あの子は全て反対……つまり私たちからすれば当たり前のことを聞いてきたし、あの子から見れば私の答えは逆だったってことだよ」
「じゃ、答え方を間違っていたら……」
「どうだろう……なにか面倒なことになってたかもしれないね」
鏡の中だから反転している、ってトラップだったのか。
俺と優香はヒヤリとした。
「たぶん私たちを試そうとしているんじゃないかな……気をつけてね」
「はい……」
俺たちが歩いてきた方角は漆黒の闇に呑まれ、引き返すことはできない。
目の前のぼんやりした白い光を辿っていくしかない。
しばらく歩くと大きな地割れが行く手を寸断していた。
俺たちを阻むように横に長く割れ、覗き込むと闇に覆われていて底が見えない。
「どうしろっていうんでしょう……走って飛び越せってことでしょうか?」
割れた地面の向こう側までゆうに10メートル近くある。
走り幅跳びの世界記録はたしか8メートル後半。
俺たちに飛び越せるわけがない。
立ち尽くしていると、空気が振動してその波動が全身を包み込む。
「え? なに?」
「危ない、離れろ!」
俺たちは地割れから離れ、姿勢を低くして警戒体勢をとる。
「え……?」
理沙先輩が上を見上げて立ち尽くしていた。
「先輩、危険です、もっと離れてくだ……」
俺も言いかけて、言葉が途切れた。
俺たちの斜め前方上空、地割れの上あたりに、細長い板のようなものが浮かんでいた。
「なんなの、あれ」
優香もしゃがんだまま呆然と見上げている。
それは全部でみっつ、横幅は一メートル、長さは十メートルほどか。
周囲が薄暗いのでよくわからないが、それは石で出来ているようだ。
石で出来た板が上空に浮かんでいる。
ありえない光景に俺たちはしばらく言葉もないまま、その物体を眺めていた。
するとどこからともなく、空から降ってくるような声が響き渡った。
『みっつのなかからひとつ選びなよ』
先ほどの少年の声だ。
『正解だったら、それは橋になって、お姉ちゃんたちは向こうへと進むことができるよ』
どうやらさっきの鏡の世界と同じような『謎かけ』らしい。
みっつとも同じものに見えた……どれが『正解』なのか見当もつかない。
「先輩……わかりますか?」
俺は石板を見上げながら、理沙先輩に訊ねた。
先輩も困惑した表情で俺を振り返り、小さく首を振った。
(先輩にわからないものが俺にわかるわけがない……)
軽い絶望を覚えていると、しゃがみ込んでいた優香が立ち上がり、地割れに近づいていく。
「おい、危ないぞ、下がれ」
「優香さん?」
優香はみっつのうち、ひとつを指差し、
「もしかしたらあれかも」
と、小さく呟く。
「え?」
俺と先輩は優香の指差す石の板を見上げた。
「ほら、CFCGって書いてあるでしょ?」
「なんだって?」
よく見ると石の板にアルファベットのCFCGという文字が彫り込んである。
ほかのふたつにも『XYYZ』『TMGO』とあった。
どれも文字を出鱈目に並べられただけに見えるのだが。
「答えがわかったよ……私に任せてくれる?」
優香が俺と理沙先輩を振り返る。
俺は先輩と顔を見合わせたが正解がわからない以上、優香に任せるしかない。
俺たちが頷くと優香は、
「じゃ、その真ん中を選ぶよ」
と中空に向けて声を張る。
しばらくして、
『お姉ちゃん、それでいいの?』
少年の声が降ってくる。
「そう、それだよ」
優香が指をさすと、真ん中の石板がゆっくりと落下してきて、
ズシーン
と音を立てて地割れに橋を掛けた。
「おい、待てって」
「大丈夫だって」
優香は振り返って笑うと、すたすたと迷いなく渡り始める。
息を詰めて俺と先輩は見守っていたが、なにごともなく優香は渡り終えた。
その瞬間、大音量で音楽が鳴り響き、俺は思わず身構えた。
『せーいかい!』
少年の声はなんだか嬉しそうだった。
「ほら、大丈夫だよ、渡ってきて」
優香が手招きしていた。
「どういうことだ、これは」
橋となった石板を渡り終えた俺は待っていた優香に尋ねた。
「コード進行だよ、CFCGってね。
めっちゃ基本的なやつだけど」
ああ、と理沙先輩が声を上げて、俺も気づいた。
コード進行は作曲において、メロディーやサウンドの骨格みたいなものだ。
優香は中学で軽音楽部に所属している。
俺も先輩も音楽は好きでお気に入りのアーティストやバンドの話をしたりするが、聴く専門で音楽理論までは詳しく知らない。
「すごいねえ、優香さん」
「えへへ、たまたまですよ、Aマイナーとかセブンスコードを使ってくれればもっとわかりやすかったんですけど……
メジャーで統一されていたから一瞬何のことだかわからなかったんですけどね」
まあ、なんだかよくわからないが優香がそのあたりに詳しくて助かったというところか。
「でも、最初の謎かけはいかにも異界人らしかったけど、いきなり雑学クイズみたいなものを仕掛けてくるなんて……」
「なんのつもりなんだろうな、からかってやがるのか」
「向こうはほんの遊びのつもりなのかもしれないね……だけど気をつけて」
俺たちは頷き合うと、また淡い光を目指して進んだ。
前を歩く理沙先輩と優香の後ろ姿を見ながら歩いた。
しかし……いつまで続くのか。
「ううん……」
佳奈ちゃんが小さな声をあげて身じろぎする。
目を覚まされると厄介なことになりそうだな……。
でもこう言っては女の子には失礼だが、だんだんと重さが腕に疲労を蓄積させてくる。
背負った佳奈ちゃんを揺すり上げて背負い直した。
そんな俺に気づいたのか理沙先輩が、
「水瀬くん、平気? ちょっと休もうか」
と、振り返る。
いや、大丈夫ですよ、と答えようとしたとき。
「あ……」
優香が驚いたように立ち止まる。
俺と理沙先輩もはっとして足を止めた。
目の前に壁があらわれた。
ただの壁ではなかった、ドアが一定間隔にみっつ並んでいた。
『じゃあこれが最後だよ、ドアがみっつあるけど、ひとつだけ、お姉ちゃんたちがいた世界に繋がってるから。
それを選べば無事に帰れるよ』
少年の声が降ってくる。
またか、なんの謎かけだ、これは。
俺たちは顔を見合わせ、ドアを見比べた。
なにか違いがあるのか、どこかにヒントがあるのか……同じドアがみっつ並んでいるだけにしか見えない。
しかし、ひとつだけ現世に繋がっているのなら、あとのふたつは紛い物のドア。
偽物なのか幻覚なのかはしらないが、
霊感持ちの俺たちなら、人ならざるものが作った何かを感じ取れるはず……。
意識を集中させてみたが、俺には違いはわからなかった。
優香も同じらしく諦めたように小さく首を振る。
俺と優香が救いを求めるように理沙先輩の顔を見た。
「若干……いちばん左の気配が薄いような気もするけど、わからないな……迷ったら左を選べ、みたいな心理戦なのかも」
聞いたことがある……左回り理論というものでこの法則によれば、人間は自然と左回り、反時計回りに行動してしまうというものだ。
「越嶌さん、お任せします」
優香は肚を括ったのか、妙にスッキリした口調で笑みさえ浮かべている。
俺もわからないのだから、ここは理沙先輩の霊感能力に頼るしかない。
「責任重大だなあ……」
先輩は苦笑しつつちょっと肩をすくめたが、
「じゃあ、いちばん左、そのドアを選ぶよ」
と、指さした。
『ふふふ、それでいいの? じゃあまず、いちばん右を開けてみるよ』
いちばん右のドアが開くと、むこうは紅蓮の炎が轟々と燃えていた。
『とりあえず間違いはしなかったね、さすがお姉ちゃん』
右のドアがふっと消え失せて、真ん中のドアと先輩が選んだ左のドアが残った。
『さあ、どうする? 変えてもいいよ、それともそのままでいい?』
少年の声が楽しくてたまらないといった感じで煽ってくる。
「先輩……どうですか、わかります?」
「んん……ふたつになったぶん、気配がわかりにくくなったかも」
理沙先輩が自信なさげに言う。
優香は唇を結んでひとことも発さない。
あらためて神経を集中してみたが、やはり先輩にわからないものが俺にわかるわけがなかった。
理沙先輩は数秒逡巡したが、きっぱりと、
「そのままでいいよ」
と言った。
『へへへ、じゃあいくよ、どっちが正解かなー?』
少年の声が一層楽しげになる。
あいつは面白がっている……これはゲームなんだ、だとしたら。
火花のように脳裡にパチッと閃くものがあった。
(まさか……これは)
「いや、待て!」
俺は大声で制した。
「え?」
理沙先輩と優香が驚いて俺を振り返る。
「左じゃなくて右だ!」
少年の声が響いてくるあたりを睨みつけて怒鳴るように言った。
「水瀬くん?」
「お兄ちゃん?」
ふたりはぽかんとした顔で俺を見ていた。
『へえ……お兄ちゃん、三人のなかでいちばん能力が弱そうだけど……変えるんだね?』
生意気なガキだな……すこしイラッとした。
「ああ、右だ、右が正解だろ?」
もういちど怒鳴りつける。
『わかったよ、じゃ、まず左を開けてみようかー』
少年の声と同時に、左側のドアが開く。
そのむこうは暗闇……いや、惑星や星雲のようなものが見えた。
どうやら宇宙空間のようだ。
ボンッ、と爆ぜるように左側のドアがかき消えると、右側のドアが開いた。
瞬間、眩い光に包まれる。
思わず目を閉じた。
『はい、正解ー! なかなかやるね、じゃあ約束通り元の世界に返してあげるよ! 面白かったよ、またいつか遊ぼうねー』
少年の声はとくに残念そうでもなく、あくまで楽しげだった。
目を開くと、光は消え失せており、そこは掃除用具や机と椅子が積み上げられた、薄暗い倉庫内だった。
「え? 元に戻れた……の?」
優香が周囲を見回している。
「ああ、どうやらそのようだな」
俺は安堵して長く息を漏らした。
安心したら佳奈ちゃんの重さが腕に堪える。
ゆっくりと背から下ろし、壁に背をつけて座らせる。
「水瀬くん……よくわかったね」
理沙先輩が感心したように言った。
「いや、わかったというか……」
ネットで聞き齧ったのだが、30年ほど前にアメリカで話題になった出来事だ。
雑誌だかクイズ番組だかでこのような問題が出された。
『3つのドアのうち、正解は1つ』
『1つのドアを選択したあと、外れのドアが1つ開放される』
『残り2つの当たりの確率は1/3(33%)から 1/2(50%)になる』
『だから、改めて選び直した方が正解の確率が上がる』
『一見正しいように思えるが、さて真実は?』
という確率論だ。
大論争が巻き起こったらしいが、変えるのが正解、のようだ。
あくまで計算上・理論上ということだという説もあるが詳しくは知らない。
「ああ、あれかあ、モンティ・ホール問題ってやつだね」
理沙先輩が得心がいったように頷く。
「あいつは面白がってましたからね、たぶんそういうゲームなんだろうなと」
「へー……お兄ちゃんにしちゃ鋭いね」
「なんかひっかかる言い方だな」
俺たちは明るい笑い声を上げた。
佳奈ちゃんはまもなく目を覚まし、
「え、なんでみんなこんなところにいるの?」
と、驚いていた。
「佳奈が急にいなくなってみんなで探してたら、この部屋で寝てたんだよ」
「え、ほんとに? 全然覚えてない」
と言っていたが、
「昨日夜更かししたからかなー」
と最後には納得していた。
なんだか疲れたという佳奈ちゃんを連れて、優香は帰って行った。
『お兄ちゃんをよろしくお願いします』
などと生意気な言葉を残して。
「先輩、大丈夫ですか、疲れてませんか?」
「うん、全然平気。
それにしても無事に帰れたのは水瀬くんのおかげだね、優香さんの音楽知識にも助けられたし」
「いや、先輩だってすごかったじゃないですか……最初の謎かけなんて俺だったらまんまとひっかかってましたよ」
先輩はクスッと笑った。
「でも……最終的にはあの子は私たちを無事に帰すつもりだったでしょ、ただ私たちをからかいたかったか、遊びたかっただけだと思う」
確かに……ただ無邪気なだけだったように感じる。
「でも……何者だったんでしょうね、あんな異界を作り出すとは。
この学校にあんな力を持つやつがいたなんて」
「いた、というか呼び寄せたのかもしれない、私たち三人のうち、誰かが向こうの存在を呼び寄せやすい体質なのか……ううん、もしかしたら」
理沙先輩は宙に視線を漂わせた。
「水瀬くんと優香さん、そして私の三人が一か所に集まることで、いわゆる『人ならざるものを召喚する条件』が揃ってしまったのかもね」
「え……?」
俺は思わず息を呑んだ。
理沙先輩はしばらく沈黙していたが、
「ま、ただの憶測だよ、根拠なんてないから」
そういって笑った。
俺と理沙先輩と優香が三人集まると、向こうの存在を呼び寄せる……。
もしそれが本当だったら……今日のところはなんとかなったけど、いつかマジでヤバいものを呼び寄せてしまうこともあるかもしれないってことか……。
俺はちょっと身震いした。
そのうちこんな考えも浮かんでくる。
だとしたら、理沙先輩と俺が付き合ったりしても優香に紹介したり、家に呼んだりできないなあ。
などと妄想していると。
「どうしたの? ぼんやりして」
理沙先輩が不思議そうな顔で覗き込んでくる。
深い泉のような瞳に心の中を見透かされそうでドギマギする。
「あ! い、いや、なんでもないっす!」
よかった……夕暮れどきで……顔が赤くなってるのがバレないから。