私(水瀬優香)は、放課後の帰り道でよく寄り道をする。
所属している軽音学部員や親友の佳奈と、
ドーナツショップやスタンドカフェで長々とおしゃべりする。
今日はたまたま軽音楽部の練習は休みで、時間に余裕があった。
ひとりで街をぶらつき、歩き疲れたのでコンビニでアイスを買って、
公園のベンチに座っていた。
ちょっと離れた場所に男の人が立っているのに気づいた。
三十代くらい、瘦せた体躯で、くたびれたスーツ姿。
周囲の人は誰も気づいていない。
(あれ、生きた人間じゃない……)
慌てて視線をそらしたが、一瞬目が合ってしまった。
私は幼い頃から人ならざる存在を視たり感じたりする体質だ。
基本は無視する。関わると面倒になるから。
私はアイスを食べ終えて立ち上がり、公園を出た。
男の視線が背中に突き刺さってくるが、気づいていないふりをした。
メンドーくさいことにならないといいけど、とため息が出た。
翌日、学校の帰り。
佳奈とカフェに寄ったら、男が店先に立っていた。
昨日と同じ姿。
店内には入ってこず、ガラス越しにこちらを眺めている。
一時間ほどおしゃべりし、店を出た。
背後に昨日と同じ視線を感じる。
「それでね、その時お父さんがさあ……」
佳奈といつものおしゃべりを続けながら歩いた。
霊感のない彼女には視えていない。
「それじゃまた明日ね」
「うん、バイバイ」
佳奈と別れると、男は迷わず私の後を尾けてくる
徐々に距離が縮まってきた。
(しつこいな……)
家に着き、玄関を入ると気配が消えた。
家は結界のようなものだから、入れない。
私は部屋に戻ってほっと息をついた。
それからも男は毎日現れた。
学校の近く、通学路、カフェ、コンビニ。
友人たちといてもおかまいなし。
最後は私に尾いてくる。
無視し続けても、諦めない。
視線が重く、ねばつく。
苛立ちが募る。
あっちの存在とは関わらないのがセオリー、だがもう限界だった。
ある夕方、人通りの少ない路地で、私は足を止めて振り返った。
「なに? なんでずっとついてくるの?」
『お前、視えてるよな……話せるよな』
べったりと張り付いたような髪の毛。
クマのできた目元とこけた頬。
声はかすれ、低い。
「だったらなに?」
『もうずいぶん長い間、人と話していないんでね。
とはいってもだれも俺に気づきゃしねえ、と諦めてたら、お前に会ったってわけだよ。
目が合ったよな、お前は俺を見た。視えてるってすぐわかったぜ』
ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら言う。
私の頭の先から足元まで舐めるような視線が這い回る。
『それもピチピチの女子中学生ときた、俺みたいな年齢になると関わりになるのも難しいからな……
へへ、こうなってみると、他のやつに見咎められないってのもいいもんだよな』
きっしょいな、ロリコンかよ、こいつ。
私は睨みつけた。
「なんでいつまでもこの世にいるの? さっさと成仏しちゃいなよ」
男が小さく笑い声を上げる。
『成仏? そんなのしたくないよ。それに針の山地獄に落ちるなんて言われたら寝覚が悪いしな
おっと、死んでるのに寝覚が悪いってのもおかしな話だなあ』
思わず息を呑んだ。
針の山地獄──人を殺した者が落ちる場所だ。
「人を殺したの?」
『ああ、そうだよ。昔の話だけどな。
昔のダチからちょいと金を借りてたんだけどさ、しつこく返せ返せと言ってきやがる。
ちょっと待ってくれって頼んでるのに聞き入れやしない。
毎日執拗に詰め寄ってきて、俺の生活を壊そうとしやがった。
だから、ナイフで刺して黙らせたよ。
でも、俺は悪くなかった。あいつが悪いんだ。
友達が待ってくれって頼んでるのにな、薄情なやつだったぜ』
男は笑い話のように話す。
「とんでもない悪党だね、でも地獄なんて信じてるんだ」
『俺の婆さんが信心深くてね、ガキの頃悪いことすると地獄へ落ちるって散々脅されたもんさ。
いまは子供騙しってのはわかってるよ、別に信じてるわけじゃねえ。
こうして俺はこの世に留まっていられるわけだしな、
なあ、そんなことより俺に付き合ってくれねえか、何も怖いことなんかないさ、
ちょいということを聞いてくれさえすりゃいいんだ……』
男が並べ立てる言葉は、卑猥で下品で聞くに耐えないものだった。
借金を返さず、相手を逆恨みして殺す。
返済を求められただけで、カッとなって命を奪う。
そんな男が、死んでからも罪を認めず、ただ地獄を恐れて逃げ回る。
生前の非道さが、はっきりわかる。
借金は自業自得、返済を迫られるのは当然。
それで人を殺すなんて、悪そのもの。
根っからのクズだな、こいつ。
私だって地獄だの天国だの信じていない。
いわゆる『信じるものは救われる』ってやつだ。
けれども……。
私は声を低く抑えながら、言った。
「あのさあ、天国とか地獄って、人の心の中にあると思うよ。
自分が信じてるイメージが、現実になる。
針の山、想像できる?」
男が怪訝そうな顔になる。
『なんだよ、それ』
私は身を乗り出すようにして、指で自分の頭をコツコツと突きながら言葉を重ねた。
「ほら、想像してみて。
鋭い針が、無数に突き出てる山。
針の先は鋼のように硬く、錆びた鉄のように毒々しい色をしてる。
足を踏み入れるたび、無数の針が肉を貫き、皮膚を裂き、筋肉を抉る。
骨が砕けて、激痛が全身を駆け巡り、息もつかせぬ苦しみ。
血が噴き出し、熱く粘つく感触が足元を滑らせる。
登っても、頂上はない。
周囲は暗く、冷たい風が傷口を苛む。
針の山は果てしなく続き、転げ落ちても、再び登らされる。
泣いて赦しを請うてもすでに手遅れ。
永遠の苦痛と絶望に包まれる。
それが、あんたの罪の報いだよ」
怒りが抑えきれず、声が震える。
男の表情が歪む。
『黙れ……そんなの、嘘だ……』
私はさらに強く、言葉を叩きつけた。
「友達が生活を壊そうとしたって? そんなのただの言い訳だよ。
カッとなってナイフを振るうなんて、理性のないけだもの。
相手は悪くない、あんたが悪い。
借金して、お金を返すのは当然。
それで命を奪うなんて、最低だ。
針の先が、足の裏を刺す音。
血が熱く流れ、視界が赤く染まる。
痛みで叫んでも、誰も助けない。
永遠に、登り続ける。
それが、あんたの行くべき地獄だよ!」
突然、周囲の空気が入れ替わったような気がした。
ざわりと肌に泡が立ち、私は反射的に飛び退いた。
路地の地面が激しく震え始める。
土が裂け、無数の黒く痩せ細った手が這い出してきた。
刃物のように鋭い爪が、男の足首を掴み、容赦なく引きずり込む。
『うわあああああ! やめろ! 離せ! 助けてくれ! お前、頼む、止めてくれえええ!』
手は次々と這い出し、男の体を絡め取り、膝、腰、胸、肩、首へ掴みかかる。
男は悲鳴をあげ、必死に藻掻き、地面に爪を立てて抵抗するが、
体がまるで底なし沼に捕えられたように地中へ沈んでいく。
『いやだ……針の山なんて……いやだあ……助けて……誰か……!』
絶望的な叫びが路地に響き渡る。
私は呆然とそれを眺めていた。
恐怖に引き攣った男の顔。
目を見開き、口を大きく開けたまま地面に飲み込まれた。
裂けた土が瞬時に塞がり、残ったのは、
腐葉土のような臭いと、消えゆく悲鳴の余韻だけ。
静寂が広がり、気配が完全に途絶えた。
私は体の力を抜き、震えながら息を吐いた。
(成仏……したのか、地獄に落ちたのか。
どっちでもいい。もう、この世にいない)
その日の夕食のあと。
兄の優弥の部屋で、その話をした。
ひとりで抱え込んでいるには荷が重すぎたから。
優弥は話を聞き終えると、大きくため息をつく。
「針の山のイメージで霊を追い込むなんて、よくそんなことやったな……
しかも、キレまくって言葉で地獄に落とすって……お前、怖いよ」
私は肩をすくめた。
「許せなかったんだもん。
借金を返さず、人を殺して、死んでも反省しないなんて」
兄は少しあきれた顔で、ちいさくかぶりを振った。
「まあ、無事でよかったけどな。
これからはそんな無茶、絶対するなよ」
「わかってるって」
私は笑って部屋を出た。
あの男は、今頃針の山を登っているのかもしれない。
その苦痛は終わりがなく、永遠に続くのだろう。
私が怒りを込めて叩きつけた言葉が、イメージが、あいつの心を縛り、地獄へ落とした。
自責の念も起きないし、憐憫の情なんてさらさらない。
やっと罪を償うことができたんだ──それで、いいよね。

