道場に響く気迫の声。
竹刀の打ち合う音。
踏み込みの足音。
それらは私(越嶌理沙)には心地よい音楽のようだ。
顧問の先生の「止め!」という声と共に一斉に静まり返る瞬間も好きだ。
最後に地稽古を行う。
お互いに何を打つかを決めない、試合のような形式で行う稽古だ。
相手はランダムに決められるが、今日の相手は一年後輩の水瀬優弥くんだった。
最近彼は上達してきた。
まだ一本も取られたことはないが、僅かでも気を抜くと打ち込まれるだろう。
相対すると彼の気迫が伝わってくる。
その瞬間、ふっと去年の出来事が頭を過ぎった。
私が一年生だったとき……。
中学で三年間剣道をやっていて、高校でも剣道部に入った。
入部して道場に足を踏み入れたとき、ある気配をすぐに感じ取った。
(何かいる……)
それは私にだけ察知できる感覚だった。
この世でないものの存在が視えたり、聴いたり、感じ取る『霊感体質』だ。
幼いころから経験してきて、感覚をコントロールする──霊感センサーをオフにすることもできた。
視えるというのは私にとって『レイヤー』みたいなもの。
イラストでいえば、土台の背景画にその他のものを描いた透明なフィルムを何層にも重ねていってひとつの絵になる。その重ねるフィルムがレイヤー(階層)だ。
普段は余分なレイヤーを外して、背景だけを見るようにしている。
だが、入部したてで緊張していたのだろうか。
うっかり気配を拾ってしまった。
しかしその姿は視えない。
(どこにいるの……?)
無視してもよかったが、三年間通う道場だ、相手の実態を知っておきたかった。
だがいくら周囲を探っても、どこにいるのかはっきりしない、近くにいるのは間違いないのだけれど。
まあ相手が姿をあらわす気がないのなら放置でいいか、悪意みたいなものは感じ取れないし。
だが、強固な意思がはっきりとあるようで、放っておけばそのうち消失するものでもなさそうだ。
そんな曖昧模糊とした状況がしばらく続いた。
秋の大会が近づいてきたころ。
その日は部活は休みだったのだが、放課後に自主練でもしようと部室に向かう。
いつもは必ず誰かいるのに、そのときは私ひとりだった。
道着を着て道場に入る。
手の内の反芻、素振りや足捌きの練習をしていると、ふいに周囲の空気がざわついた。
(間違いなくいる!)
いつもは漠然とした気配しかないのに、ぴしりと肌を打つような存在感があった。
目の前にぼんやりとした人影があらわれる。
剣道着を着た同年代の男子のようだ。
もう無視できる状態ではなかったので覚悟を決め、
「ずっとここにいたのはあなただったのね」
と問いかけた。
『そうだよ、試合……試合に行かなきゃ』
「試合?」
『もうすぐ……もうすぐなんだよ、行かなきゃ』
訴えるような眼差しが私の胸を刺す。
頭の中に相手の思いや記憶が一瞬で流れ込んできた。
私の通う高校は百年近く前に創立された歴史ある学校だ。
彼はもう五十年ほどまえ、この高校の生徒で剣道部員だった。
二年生のとき、秋の大会に出るために毎日稽古に励んでいたが、試合の数日前に交通事故に遭って命を落とした。
それからずっと試合に行かなくてはという心残りがこの道場に彼を縛り付けてしまっていたのだ。
(そっか、だからいまの時期にあらわれたのか……)
秋の大会が近づくたび、彼の無念は大きくなっていたのだろう。
「もうあなたは試合には出られないのよ」
諭すように言ったが、
『駄目だ、行かないと……行かなきゃ』
と、繰り返すのみだ。
まずいな、と思う。
私が小学四年生のとき、夏休み前に引っ越していった男の子が、転校先の学校に通うことなく、事故で亡くなってしまった。
その子の霊が残していった自画像を依代にしてクラスメイトに自覚なく害を与え始めたことがあったのだ。
そのときの母の言葉が脳裡を過ぎる。
──人はね、この世に思いを強く残しすぎると、生きている人に害を与えてしまうことがあるの、悪意があるなしに関わらずにね。
彼は五十年もこの道場に縛り付けられてきた。いままでなにごともなかったことが奇跡だったのだ。
だが、このさきもなにも起きないという保証はない。
あのとき母に助けてもらったけど、今は私ひとり……。
でも、放っておけば彼の無念がいつか誰かを傷つけるかもしれない。
どうすればいい、どうすれば。
試合か。
危険だがやるしかない。
「先輩、私といまから試合をしませんか?」
そう言うと、いままで独り言にも思える言葉を口にしていた霊が感情を見せた。
『きみと……?』
「はい、私は一年生で、先輩には及びませんけど中学でも三年間剣道をやってきました。稽古をつけるつもりでひと試合していただけますか?」
望洋とした表情だった『先輩』の目に光が宿る。
『いいよ、やろうか』
口元に笑みを浮かべてそう言った。
部室で防具をつけて道場に戻ると、彼はもう防具一式をつけ、竹刀を持って立っていた。
つま先立ちで深く腰を下ろす『蹲踞』の姿勢で向かい合う。
(強い……)
気迫が感じられる。まるで生きている人と相対しているようだ。
立ち上がって竹刀を軽く合わせた。
カツン、とかすかに音を立てる。
この世の人間とそうでない存在が物理的に触れ合うことはない。
が、向こうがその気になれば触れることはできる。
それはこちらからも触れることができるということだ。
試合が長引くのは危険だろう。霊と関わり合うこと自体が禁忌なのだ。
一瞬で勝負を決めなければ、何が起きるかわからない。
竹刀を僅かに下げて後ろへ退がった。
(来る……!)
中段に構えていた先輩が次の瞬間、上段に切り替えた。
鋭い気迫が突風のように叩きつけられてきて、思わず目を閉じそうになる。
裂帛の気合いの面打ちを体捌きでかわしながら踏み込んだ。
体を沈めて相手の懐左下に潜り込む。
面抜き胴。
手の内と手首の冴え。
確かな手応えがあった。
すれ違って素早く向かい合う。
蹲踞の姿勢で納刀し、立ち上がって一礼する。
『見事だね、素晴らしい面抜き胴だった』
いつのまにか面を外していた先輩は晴々とした笑顔で言った。
「先輩、ありがとうございました」
深く頭を下げて顔を上げると、彼の姿はなかった。
気配も消えている。
私は大きく息を吐き出し、もう一度、彼の立っていた場所に向かって頭を下げた。
あれが最後だった。
以来、「先輩」があらわれることはなかった。
なぜだかそんなことを思い出した自分がちょっとおかしかった。
目の前に立つ水瀬くんはもちろん生きた人間だ。
そして私と感覚を共有できる『仲間』でもある。
──最近、霊感が強くなってきて困ってるんです。
そんなことを言っていた。
霊感が強い者のそばにいると、多少なりとも霊感のある人は、その力が共鳴して強くなってしまう──らしい。
とはいえ、私も彼が一年後輩で入部してきてから、感覚が研ぎ澄まされてきている自覚がある。
互いに共鳴して強め合っているのか。
だけど……。
竹刀を下げて面を空けた。
面の物見の下で水瀬くんの目が光る。
来る……!
一瞬で踏み込んできて上段を襲ってくる。
体を沈めて左下に避ける。
面抜き胴。
竹刀が胴を捉えた手応え。
「痛ってぇ……」
水瀬くんの小さな声。
向き合って一礼する。
面を外した彼の顔は、少し悔しそうで、でもどこか嬉しそうだった。
霊感はかなり鋭くなってきたようだけど、剣道ではまだまだ負けるわけにはいかない。
すくなくともあの『先輩』より強くならないとね。
霊感体質は悪いことばかりじゃない。
いろいろな人の心に触れることができるのだから。
あの日の激しい気迫と穏やかな笑みが浮かんで、胸の内が少し温かくなった。
──精進が足らんよ、水瀬くん。
私は心の中で呟き、微笑んだ。


