よくある心霊体験とは違うのだが、ちょっと不気味な話。
俺が高校生になったとき、それまで住んでいた公営団地から一戸建てに引っ越した。
それまでは八歳離れた弟と部屋を共有していたから、一人部屋が持てたのはすごく嬉しかった。
そのころ俺は外国情緒的なものに凝っていて、小遣いやバイト代で、
リサイクルショップなどでインテリアや生活雑貨を買ってきては、部屋を飾りつけ、悦に入っていた。
エキゾチックだったりオリエンタルだったり、統一感もへったくれもなかったが、とにかく自分だけの個室を居心地の良い場所にすることに夢中になっていた。
だけど俺の部屋にあるゲーム機目当てに弟がいつも入り浸っていたのはちょっと困りものだった。
「そろそろ勉強するんだから出てけよ」「えー、もうちょっとだけ」
そんなやり取りを繰り返しながらも、歳の離れた弟が可愛く、好きにさせていた。
ある日、いつものようにショップで物色していて、一枚の絵画が目についた。
薄暗い夕空を背景に、アンコールワット遺跡を描いた水彩画だ。額付きで三千円と値段も手頃だ。
俺は早速手に入れ、部屋に飾った。
(なかなかいいじゃないか)
ひとり眺めて満足していると、
「お兄ちゃん、ゲームやらせて」
ドアが開いて弟が入ってきたが、絵をひとめ見て
「うわあああああああ!」
と、悲鳴をあげてその場に尻餅をつく。
「なんだ、どうした?」
駆け寄る俺に、弟は震えながらしがみついてきた。
「怖いよ……! なんなのその絵! おばけの絵だよ!」
俺は呆気に取られて絵を振り返った。
なにも変わったところはない。ただの風景画だ。
薄暗い空に遺跡──確かに廃墟のようにも見え、あまり明るい絵ではないが、そんなに怖がるほどのものでもない。
しかし弟はブルブルと震えていて、本気で怯えているのがわかった。
「やだよ、怖いよ!」
弟はとうとう泣き出してしまう。
騒ぎを聞いた父母も飛んできたが、
「この絵のどこが怖いんだ?」
と、首を傾げるばかり。
それ以来、弟は俺の部屋に近寄らなくなった。
俺も両親も訳がわからなかったが、小さな子供の感性というものは思いも寄らない想像を生むものだ。
弟にしかわからない恐怖心を煽るスイッチがあるのだろう、ということで深く考えなかった。
それから数年後、俺は大学進学のため、家を出ることになった。
引っ越しのため、部屋を片付けていると弟が久しぶりに部屋へやってきた。
家を出る兄の手伝いをしようということらしい。
「この本置いてってよ」「ああいいよ」
「このゲームくれない?」「えー、それは……」
などと言いながら部屋を片付けていく。
「うわ兄ちゃん、まだこの気持ち悪い絵、持ってたのかよ」
いらないものを雑に放り込んであった段ボール箱を覗いて弟が顔をしかめる。
それはあの日、弟がひとめ見て泣き出したあの絵だった。
そのころには俺の熱もすっかり冷めていて、買い集めた雑貨などは物置きの奥に押し込まれていた。
これを機に処分しようと思っていたのだ。
「ははは……おまえ、これ見て腰抜かしてたもんなあ、笑えるぜ」
「うるっさいなー」
弟も最近は生意気になってきて、あのころのように怖がって泣いたりはしないようだ。
「でも……なんなの、その絵。誰かの顔?」
「は? 顔なんてどこに描いてあるんだ、風景画だよこれは」
「はいはい、もうそういうのいいって……喉乾いたな、兄ちゃんもなにか飲む?」
「お、悪いな、じゃコーラ頼む」
弟は階下に降りて行き、その話はそこで終わった。
そして引っ越した夜。
俺はアパートの一室で荷物を解いていた。
段ボール箱を開け、
「あれ?」
と声を上げた。
衣服に紛れてあの絵が入っていたのだ。
(捨てたはずなのに……)
手にとって眺める。
ははあ、弟の仕業か……?
昔怖がったことを揶揄った俺を脅かそうとしたのだろう。
苦笑して眺めていると──うっかり手を滑らせて絵を床に落としてしまった。
ガチャンとガラスの割れる音。
「ああ、しまった……」
まったく……引っ越し早々手間を増やしやがって。
ガラスの破片を片付けようと手を伸ばしたとき、額縁からはみ出した紙の裏側に、もう一枚の絵が貼りついていることに気づいた。
「え、なんだこれ……?」
そこにあったのは、吐き気を催すような人物画だった。
男の自画像と思しき顔が、紙面を歪に支配している。
異様に大きく見開かれた目は血走り、焦点の狂った瞳がこちらをねめつけるように描かれていた。唇は耳元まで引き裂かれ、黄ばんだ歯がむき出しになり、喉の奥から笑い声が漏れ出てきそうな、狂気と歓喜の入り混じった表情を浮かべている。
荒々しい筆致は紙を抉るように何度も塗り重ねられ、皮膚は腐敗したような黄灰色に淀み、頰には黒い膿のような影が不規則に落ちていた。背景は血の深紅、死を思わせる漆黒、毒々しい紫が渦を巻き、無秩序に塗り潰されている。
それは、精神の均衡を失った者が己の内面を吐き出すように描いた——まさに狂気の自画像そのものだった。
長年飾っていた絵の裏にこんなものが潜んでいたことに、背筋を這うような悪寒が走った。
弟はこの絵を見通していたのか?
しかしなぜ? 弟に霊感やら不思議な力があるなんて聞いたことがない。
電話で弟に、あの絵を忍び込ませておいただろう、と問い詰めても、知らない、という。それは嘘をついているように思えなかった。
「なにかあったの?」
怪訝に訊いてくる弟に、
「いや、なんでもない」
と、絵のことは言わずに切った。
一晩も部屋に置いておきたくなくて、その日のうちに捨てた。
弟から翌朝、妙なメールが届いた。
『兄ちゃん、あの絵本当に捨てた? ぼく夢で見たよ。新しい部屋に絵が飾られてた』
部屋に飾っていた時もべつに何かが起きたということはない。
しかし弟は裏の絵の存在を見抜いていて、捨てたはずなのに荷物の中に紛れ込んでいた。
そして今も、どこかで──あの不気味な自画像が笑っているような気がしてならない。


