中学二年になって間もないある日の下校中。
家の近所の住宅街に入ってしばらく歩いた十字路の真ん中に、幼稚園くらいの男の子が立っていた。
見てすぐにわかった、
(この子、生きた人間じゃない)
と。
私は幼いころから、この世のものでない存在を視たり感じたりする体質だった。
男の子は、悲しそうな顔で同じ方角をじっと眺めている。
(なにを見ているんだろう?)
すこし気にはなったが、あの世の存在と関わりになることはあまりよくない結果を招くと承知している。
そ知らぬ顔で離れようとしたとき、いつの間にやって来たのか、同じ年齢くらいの青いTシャツを着た男の子がキョロキョロと辺りを見回している。
『あ、てっちゃん』
顔をぱっと綻ばせ、男の子が青Tシャツの子に話しかける。
だが、その子には視えていないらしく、目の前の男の子には反応せずに、キョロキョロと見回しているばかりだ。
「おかしいなあ……ここに来てってヒロくん言ってたのに」
霊の子がなんども『ここだよ、てっちゃん、てっちゃん』と呼びかけている。
どうやら霊の男の子は『ヒロくん』で、いまやって来た男の子は『てっちゃん』と言うらしい。
てっちゃんは私の顔を見ると、
「おねーちゃん、ヒロくん見なかった?」
「ヒロくん?」
「うん、ここへチョークを持って来てって言ってたのにいないんだ、ヒロくんと約束したのに」
そう言うと手に持った白いチョークを私に見せた。
『ああ、ありがとうてっちゃん』
ヒロくんは受け取ろうとするが、悲しいかな、向こうの存在は現世の人間に触れることができない。
虚しく通り抜けて虚空を掴むばかりだ。
ヒロくんなら目の前にいるよ、とは言えず、
「うーん、お姉ちゃんも知らないなあ……てっちゃんはヒロくんにそう言われたの?」
こくりと頷くてっちゃん。思わず名前を言ってしまって、『なんで僕の名前知ってるの?』と聞かれるかと思ったが、そこはやはりまだ子どもらしくスルーだった。
目の前の自分に気づかず、チョークも受け取れないヒロくんはまた悲しそうな顔をして項垂れてしまった。
(さて、どうしよっかなあ……)
と逡巡していると、てっちゃんのお母さんらしい女性が名前を呼びながらこちらへと急ぎ足でやってくる。
「てっちゃん、ひとりでお外に出ちゃダメだって言ってるでしょ」
「あ、ママ、ヒロくんが見つからないんだよ、このお姉ちゃんも知らないって」
「またこの子は……」
お母さんの顔が悲しげに曇る。
私と目が合ったお母さんは「すいません」と頭を下げた。
「いえ……あの、てっちゃんはヒロくんと約束したって言ってますが」
私の言葉にお母さんがわずかに顔を歪める。
「ねえ、おねーちゃん、ヒロくんはどうしてここにいないの?」
「そうだねえ、もしかしたら今日は忙しくて来れなかったのかも」
私はしゃがみこんでてっちゃんの頭を撫でると、お母さんはそっとため息をついた。
「なにか……あったんですか?」
「……じつは」
お母さんは訥々と語り始めた。
てっちゃんとヒロくんは同じ幼稚園に通っていて、とても仲良しだった。
二人はよく一緒に遊んでいたが、とりわけ夢中になっていたのが、
道路の白線の上だけを歩いて家まで帰る、とか、電柱から電柱までを息を止めて移動しないといけない、とか『謎の制限ルール遊び』だった。
まあ、誰しも子どものころに一度はやった覚えがある遊びだ、私にもある。
その中で、『道路にチョークで足跡を書き、その通りに歩かないといけない』というもので、ひとりが相手の家の前まで足跡を書き、もうひとりが足跡を辿って家に帰って「バイバイまた明日」と別れるのがふたりのお気に入りだったそう。
そんなある日のことだった。
ヒロくんが交通事故に遭った。
病院に運ばれたが懸命の治療の甲斐なく、ヒロくんは亡くなってしまった。
そういえば一ヶ月ほど前に、男の子が事故に遭ったと聞いたことがあったっけ。
私の自宅からはさほど近くないけど、同じ地区ということで耳に入っていたのを思い出した。
あれはヒロくんのことだったのか……。
「それからヒロくんが『チョークを持って来て』って、この子の夢に出てくるんだそうで」
お母さんは小さく首を振った。
私は横目でチラリとヒロくんを見た。
もう諦めてしまったのか、曲がり角の電信柱に下で膝を抱えて座っている。いまにも泣きそうな顔だ。
「よし、わかった、お姉ちゃんがヒロくんに渡しておいてあげる」
「ほんと、約束だよ、それとこれ……」
てっちゃんはポケットからチョコレート菓子を取り出す。
「これも渡しておいて、ヒロくん、これが大好きだったから」
「うん、わかった、きっと喜ぶと思う」
私はチョークとお菓子を受け取ると、困ったような笑みを浮かべているお母さんに会釈すると、「バイバーイ」と手を振るてっちゃんと別れた。
(ごめんね、ヒロくん、もうちょっと待っててね)
私は夕食のあと、兄の部屋を訪れて、その出来事を話した。
「ふーん……それはわかったけど、そんなもん預かってどうするつもりだよ?」
兄は怪訝そうに首を傾げた。
「そのヒロくんが事故に遭った日って、てっちゃんがチョークで家までの足跡を書いてあげる番だったのね、だからヒロくんはいつまで経っても自分の家に帰れないんじゃないか、と思うんだよね」
「え、おい、まさか……」
兄の顔色がちょっと変わった。
「なのでヒロくんがお家に帰れるようにチョークで足跡を書いてあげようと思う」
「あのな、優香……」
「わかってるって……私はヒロくんがママやパパのいるお家に帰れるようにしてあげるだけ……それ以上でもそれ以下でもないよ」
「だったらその場でてっちゃんに書かせるとか……」
「そんなのお母さんが心配でしょうよ、もうこの世にいない友達が夢に出て来て、その約束を果たしてあげるなんて」
兄は大きくため息をついた。
「ほんとにそれでヒロくんは満足するのかよ……」
「たぶんね……あのまま放っとくほうがキケンだと思うよ、地縛霊になって周囲に害をなすようになったら……」
「ああ、かもな……でもさっさと書いて済ませておけばよかったじゃないか、なんでいちいち出直すんだよ?」
「だってまだまだ日の明るい時間で通行人もいっぱいいたんだもん、そんな中で人様の家の前でいい歳した中学生が落書きしてるなんておかしいでしょ」
「そりゃそうだけど……いつ書きに行くつもりなんだよ?」
「今夜遅く……一時か二時ごろなら誰にも見られないでしょ」
「あのなあ、そんな時間に女子中学生が外出するつもりか?」
「え、一緒に来てくれるんだー、ありがとお兄ちゃん」
「誰もそんなこと言ってねーよ」
兄が苦虫を噛み潰したような顔になる。
高校二年の兄の優弥も私と同じ『霊感体質』だ。
剣道部だし、ボディガードとして申し分ない。
「二時ならお父さんお母さんもグッスリだよね……じゃ、その時間に」
兄が何か言う前に私は部屋を出た。
午前二時前。
両親が眠っているのを確認して私と兄は家をそっと抜け出した。
月明かりの明るい夜だ。
私たち以外に通行人はひとりもいない。
ヒロくんの家は私たちの家から七、八分歩いたところだ。
「あー、この家の子だったのか……」
兄はポツリと言った。やはり兄も近所であった事故の話は聞いていたらしい。
「あれがヒロくん」
私が視線で示すと、兄は頷いた。
ヒロくんの家がある筋に入る十字路にある電信柱の下に、膝を抱えてしょんぼりと座っている。
私がヒロくんの前に立つと、彼は怪訝そうに見上げてきた。
『できるだけ話しかけたりとかコミュニケーションはとるな』
兄にそう言われていたし、私だって幼いころから『霊感体質』をやっていて、そのあたりは心得ている。
私は軽く微笑みかけると、地面に漫画でよく見るような靴跡をチョークで書き込んでいく。
カツ、カツ、カツ……。
ヒロくんは不思議そうに私の手元を見ていたが、書き進めていくにつれ、その意図がわかったらしく、嬉しそうな笑みを浮かべて、チョークで書いた靴跡を辿って歩き始めた。
十字路からヒロくんの家までは住宅五、六軒くらい離れている。
たいした距離じゃないと思っていたが、絵を書きながらだと意外と長いんだな……それに中腰で書いているので腰が痛くなってきた。
いったん立ち上がって体を伸ばして休憩したいけど、ヒロくんに追いつかれてしまう。
ちょっと待ってね、とか、もうすぐだから、と話をすることになる――つまりコミュニケーションを取らざるを得ない。
ヒロくんがだんだんと近づいてくる……ああ、追いつかれちゃう。
「代われ」
兄がそう言うとチョークを私から取り上げて続きを書き始めた。
カッ、カッ、カッ、カッ……。
早い。
かなりのスピードで書き上げていき、ヒロくんと距離を離し始める。
さすが剣道で足腰を鍛えているだけあるわ……。
あっというまにヒロくんの家の前まで足跡を書き終えた。
ヒロくんは私たちが見守る中、ゆっくりと家の前まで来ると、こちらを振り返った。
『ありがとう、おねーちゃん、おにーちゃん』
笑顔で手を振り、すっと門扉をすり抜けて視えなくなった。
「あ、そうだ、忘れてた」
昼間、てっちゃんに預かったお菓子を門柱の上に置き、手を合わせた。
「しかし、遊びのルールで家に帰れなくなっちゃうって……子どもって思いもよらないことするよね」
「まあ霊ってのは、そういう傾向があるからな、思い込みや執着で自身を縛ってしまうことが多いから……逆に自由度が上がって生きているときにはできなかったことをできるようになることに気づいて好き勝手やられるのが困りものらしいけどな、とくに悪い方面に」
「なに、それ、お兄ちゃんの先輩が言ってたの?」
「まあな」
兄が入っている剣道部にとてつもない『霊感持ち』の先輩がいるらしい……一度会ってみたいものだ。
「さて、付き合ってやったんだからタダ働きってことはないよな、見返りはハーゲンダッツで手を打ってやるよ」
「げ、マジ? 高いって」
「明日の食後のデザートは楽しみにしてるぞ」
「嘘でしょ……」
そんなこんなで私たちは両親に知られることなく、ミッションクリアしたのだった。
次の日、下校途中で『スーパーカップ』のバニラをコンビニで買って、歩いていると、
てっちゃんとお母さんに会った。
「あ、昨日の……」
「すいません、なんだかこの子がどうしてもあなたにお礼を言いたいっていうものですから」
てっちゃんはにこにこして私にお菓子を差し出してきた。昨日、ヒロくんにあげたものと同じものだった。
「あのね、おねーちゃん。ヒロくんがね、『ありがとう、ばいばい』って言いにきてくれたんだ。おねーちゃんのおかげなんだって」
「そう、よかったねえ」
お母さんはちょっと涙ぐんでいる。
こんな小さなときに友達を亡くすなんて、大きな心の傷になりかねない。
でも、きっともう大丈夫だよね……。
私はお菓子を受け取って、手を振って笑顔で別れた。
家の前を通っても、もうヒロくんの気配は感じられなかった。